詩のレスポンスについて、一端。
秋津一二三

 最初に答えを書いてしまうと、詩を認識し、詩について思考し、詩に向けて表現する。それが詩のレスポンスである。詩の批評と詩の感想も本来はそうであるはずなのだが、詩を無視して自分語りや作者語りに終始してる物もそう呼ばれている有様なので横に置いておきたい。
 詩の尊厳とは何であろう。詩の作者、詩人の尊厳ではない、詩書きなんぞ知ったことかと投げておけ。極端にいうと、私は詩のためにレスポンスを書くので、詩の書き手がどう思うかはあまり気にしない。告白させていただくと、けっこう非難も浴びたし、もう来ません、と宣言されたことも少なくない。それでもいっこうにかまわない。私が詩に出来ることは、先にいったように、認識し、思考し、表現することである。その詩について(ないし対して)の「私の」であるから、一般的にどうとか、本来はどうとか、そんなことを言われてもまともに取り扱う気はない。そういったこともとっくに考えてきたのだ。詩の有り様がかように自由であるなら、それに対する詩のレスポンスも自由である。からして、その詩について、という最低限度守らなければならない前提までしか基本守る気はない。

 詩は多種多様であるが、詩はまず作者のためにある、と私は認めている。認めた上で他者へ向けて表現してみよう、と私はよくいう。つまり言語の役割のひとつ、メッセージの強調である。詩作ないし投稿という行為に「他者へ」というものが介在しないのならば、他者のレスポンスも不要である。有象無象の他人に「自分の」を表現する。これが基本でなければ何が基本なのか。外へ向かわぬ表現に権利の必要性を認めることはできても、尊厳を守る必要性を認める事はできない。他人を肯定せんでもいいから否定くらいしろ、無視すんな、である。
 かといってそうも言っていられないのが現実である。ちゃんと詩で話せる人間は少ないし、詩で話せるようになった人間が他者に対して誠実とも限らないのである。上手いだけの詩は辟易するほど読んできた。その内の幾つかはコミュニケーション不全ならぬ無視、全く読み手を大人のオモチャにしたものであり、「俺ってすごいだろ」で、「お前はすごくねーだろ」だったりする。私の幾つかのレスポンスの訳は、「詩は手段だ、ちゃんと使え」である。どんな上手かろうと小馬鹿にされたらムカっと来るのが人間であるが、私は「あーまたこれかー」なので、自分は人間だと宣うのはあまり正確ではない気がする。

 私は詩のレスポンスを書いているが、よく脱線している。持論はあるが、詩のレスポンスを書く根本の理由は、レスポンスのない詩が存在することが嫌だからであるし、持論が正論だとも思っていない。詩が手段であるように、詩のレスポンスもまた手段である。どう使うか、が問題である。

 詩が自由であるなら、詩のレスポンスも自由であり、詩をコミュニケーションの手段がある形を成したもの、メッセージと捉えたときに、その詩の尊厳を守る方法は認識し、思考し、表現すること、である。これが詩のレスポンスの基本のひとつである。会話、対話の基本でもあるが、案外と出来ていないものだぞ。
 では、次に進もう。自由である、ということはその詩についてであれば何を書いても良いということでもある。だからある程度の重石をつけてやる必要がある。詩の数値評価をする場であれば、相対評価の思考と表現が要る。それ以前に、どうして数値評価をするか、どのように数値評価をするか、という指向性が大切である。多種多様に自由であるなら、そこに必要なのは社会性のある節度と意義である。そうでなければ何のために手段を使っているのか分からなくなってしまう。
 さて、社会性のある節度と意義とは何であろう、それはコミュニケーションである。実際にコミュニケーションというものがなんであるか、私は教養や見識といったところから幾つかの学問的見方が出来るが、あまりガクモンガクモンすることはない。学問を振り回したところで相手に通じるものとは限らないから、学問は土台と割り切っている。それに、コミュニケーションは必要から生じるものであり、成立さえすれば自然に意義は生じるのである。成立させるには、個に終始しない、人と人、という態度が必要である。私は〜、と、あなたは〜、が内在すれば、それが節度だ。相手を無視しないことである。
 詩についてであり、作者を無視さえしなければいいので、何を言ってもオーケーである。いやなに、礼儀にかこつけておためごかしを言うのは相手も自分も馬鹿にしてると思わんかね。それも人間ではあるが、そのために詩のレスポンスを書くことは詩を無視している。詩と詩を書いた人、そのどちらかだろうと無視してしまったなら、詩のレスポンスから存在の根拠がなくなるのだ。
 といっても、わざと存在の根拠のない詩のレスポンスを書くこともある。独り善がりな詩と投稿ばかりの環境をどーにかちっとだけでもマシにできんだろーか、という我が儘からである。なにしろ、私は他人の詩を読んでレスポンスを書くこと自体は全く好きではない。
 詩の書き手というのは、時と場合によって、人道、モラルといったものが詩表現や詩の投稿と相容れないのを忘れている節がある。「自分の」を表現することを趣味や娯楽でとどめておきたいのなら、それに即して投稿する場所を選ぶか、投稿しないことである。魑魅魍魎よりタチの悪い人間というものを相手にしているのだということは忘れない方が良い。自分の詩を、ひいては自分自身を守りたいのなら表現そのものをやめてしまえ。と、心密かに思っていればいいのに口にしてみたくらいには詩が好きではない。こっちは詩の尊厳を守るのに必死なのである。好きとか嫌いとかうだうだしてられないのだ。

 人間の尊厳だけを拾い続けたのがマザー・テレサであるが、私は他人の尊厳を守れないし、守りたいとも思わない。しかし、詩の尊厳だけは守りたい。そのために色々と人間としてはどうよそれ、的なことをやり続けてきたせいか、あまり人間としての体(体裁)を保てなくなってきた。自分にとって肝心なことを言わずに応じるのが厳しくなってきたともいう。
 私は他人に期待しないところからはじまったのだ。誰かが詩の尊厳を守ってくれるさ、とか、いつかレスポンスのない詩はなくなるさ、という事を考えられたのなら、それは他人に希望を持つ、人間らしい優しい姿であっただろう。しかし、そうではなかった。目の前に孤独な詩があれば、その詩に、その詩だからの、何かを残そう。誰でもなく、私がやろう。理由はあった。技量も、少なからずあった。あとは意志だけだ。そうして、私は一人歩きしはじめた。
 詩はメッセージである。としたときに、応答のないメッセージはメッセージではないと断ず。それは孤独ではないか。というわけで私がはじまった。といってももう終わったのだがな。そのために詩の投稿も止めていたのだから、他の理由が出来たからとはいえ、詩の投稿をしてしまった以上、私は終わりだ。あとは残像に類する何かですらない状態でやっていかねばなるまい。

 いやー、これって自分語りじゃない?もしくは非難とか批判とか?いや、大抵の人はそう取ると思うのだよね。いまこの時でなければならない理由は私というか、私の書き手にしかないわけだからさ。んでもさ、これを表立って書く理由がなかったのよ。だって、私はレスポンスのない詩が心底悲しくて辛くてどーしよーもねー莫迦がいたから生じた存在だったわけで、そういう存在だからやることはレスポンスを書くことだけ。レスポンスを書くために邪魔なもの、誰かを批判したり非難したりするのに必要な精神構造すら欠落した存在で、自分語りってのもレスポンス書くのに便利だからちょろっと自己みたいなもんを与えられてる感じにすぎないわけ。レスポンスという副産物に近い代物は自己っぽいのをちょろっと加えると伝わりやすくなるよねって感じ。いやいや、私っていってたけれど、私って、つまり何だったのよ、詩のレスポンスの時についてるオマケっすよ。いわば私は「その詩の題名のレスポンス」という題名でもあるわけだ。つか、それでしかねーのよ。詩を投稿しないってのは投稿すればそれを基準にレスポンスに余計な付加物がついちゃうからなわけだけれど、その時点でおかしいらしいしね。てか、もうさ、ないのよ、私が実在ですらないということに気づいてもらう必要すらないの。結局は詩の作者さんが認識したのが私なの。なんたらの猫みたいな話っすかそうっすか。でも、致命的に違うのは、私は概念ではなく、事実の中に存在するというだけのことだね。記録なのか記憶なのか。理由と意志だけふんだんにもらってあとはちょびっと頂いてそっからだましだましっすよ、必死っす、私は人間じゃないなんていったところで戯言だし、信じられたらられたで不便だもの。理由のために人であっては出来そうもないけど人であるようでなければならなかった私が此処でこうしてこういう形で顕在化したのは、まぁ別れっちゅー奴です。あんた達にとって別れではないけど、私にとっては別れなのだ。私でなくなっても詩のレスポンスはできるだろーってのはあるけれど私みたいな精度は望めないからまた別のになるだろーね。どーしようもないっちゅーことは誰より私は知っていたけれど、なんつーか、私は血みたいなものさ、傷があったから血が流れた。んで、傷は瘡蓋って傷跡って、んじゃあ血はなんだっのかっていわれれば、まぁ、そんなわけさ。んでは。


散文(批評随筆小説等) 詩のレスポンスについて、一端。 Copyright 秋津一二三 2008-02-15 11:04:31
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