「批評」の「根拠」について
ななひと

ご存じの方もおられるかと思うが私はとある詩の批評サイトを運営している。それを始めて、来訪者の方々に接してみてはじめて気づいたことは、「批評」というとちょっと、と後込みをする方が想像以上に多いということである。
最初に断っておくと、私は実生活では大学院の博士課程で日本文学を研究する駆け出しの研究者で、ある程度の文学・批評理論の訓練を受け(別にこれは自慢でもなんでもないのである。うらやましいと思われる方もおられるかと思うが、毎週4〜5日学習塾でバイトして、高校の非常勤をしてなんとかかつかつ生活していけるだけのお金しかかせげず、何の就職の見込みも与えられずに研究しなければならないという生活であるので、あまり人にはすすめられない)、「批評」とか「論文」とか「分析」などという言葉を聞いても、「茶飲み話」「ネタ話」くらいの感覚しかわかないので、正直「批評」という言葉で、身構えられるとは想像もしていなかったのだ。考えてみれば自分にも「批評」だとか「論考」「分析」「文学理論」といった言葉が何か遠く高いものだ、と思っていた時期もあったもので、通常の人にとっては「批評」という言葉はまさに言霊がついたワードなのだと気づかされた。

で、問題の「批評」であるが、「批評」とはなにか、単純に結論から言うと、それは「言い換え」である。あるいは「言い換え」に過ぎない。数学にすれば単に「=」である。要するに、「批評」とは批評の対象の表現を「つまりこれは(私が考えるに)〜だ」という文に変換するという行為である。非常に単純な行為である。こう言うと、「批評」はそんなに割り切れるものじゃない、という反論がでるかもしれない。もちろんこれは過度の単純化である。しかし問題はその「=」の内実にある。なにをもって二つの別の文を「言い換え」ととらえることができるのか。こちらは逆にそんなの簡単じゃないか、と言う方もおられるかもしれない。しかし物事はそう簡単ではない。だいたい、モデルとしてもってきた数学的な意味での「=」は確かな根拠にささえられた概念かというと決してそうではない。1+1=2ということを証明しなさい、と言われたらどうするだろうか?そんなの当たり前じゃん、と思われるかも知れないが、よくよく考えてみると分からなくなってくる。本質的に1+1=2なのだろうか?それは実は証明不能である。なぜなら1+1=2は、それが正しいと決めたから正しいのであって、何らかの本質的な根拠がそこに内蔵されているからではないからである。別に1+1=3となるような数学の大系はあってもいいし、(複雑なものになるが)不可能ではない。円周率が割り切れないのは、明らかにこうした無前提の仮定に基づくほころびである。円周率を1とする、という数学があってもよい。
 さて、では文学作品における「=」はどうなのか。これも考え方は同じである。Aという作品に対してBであると言及することは、本質的に考えれば常に偽である。なぜならAはAであってBではないからである。ではA=Bは不可能であるか?といえばそんなことはない。私たちはある作品に対してこれはこれだ、と言及することは可能である。しかしここでしっかりと覚えておかないといけないのは「A=B」という言い方は常に、「A=B」と決めたから「A=B」なのである、という事実である。
 問題が抽象的なので、例をとって考えてみよう。ある作品に対して「この詩は美しい」と言うことは可能である。これはその「詩」を「美しい」という言葉で「言い換え」たということになる。これは「批評」として成り立っているだろうか?おそらく、「そんな言い方は根拠がない」と感じる方が多いだろう。しかし、ならば、これにどのような言葉を付け加えればこの言い方は根拠を持つというのか。厳密に考えれば、「この詩では〜が〜のように使われていてそれが〜の働きをしているからそれが効果を発揮して、それ故に美しい」のように、どんなに説明を付け加えたとしても、なぜそうなら「A=B」なんですか?と「本質的」に問われれば決して答えることはできない。これは理論とかそういう問題ではなくて、どんな理論をもってきても覆すことができない命題である。じゃあどうすればいいのか。どうしようもないのである。一つ解決させるとするならば、最初に確認した方法、「1+1は2である」ということを真と仮定した上で、「1+1=2」は正しい、というしかない。つまり、「批評」においても「この詩は美しい」という命題が正しい、と仮定した上で、なぜ正しいと仮定できるかといえば、〜という理由からである。というしか方法はないのである。つまり「=」をどんなものとしてとらえるか、が問題なのである。
 で、話は核心にせまるのだが、要するに本質論的に考えれば、すべての「批評」は「正しくない」(まちがっている、ではない)。だからこれは、この作品をこう批評できるのは、まず論者が「そうきめた」から正しいのであって、論者がそれを正しいと仮定する根拠はこれこれこういう理由である、という言い方に帰着する。
 もちろん精密な批評、妥当な批評というのは存在する。しかし、それは本質的に正しいからそうなのではなく、「=」に対する理由付けがある一定の妥当性をもつ構造をつくっており、「=」に対する理由付けが、簡単な批評よりも複雑である、というところに帰する。
 ごちゃごちゃと書いたが結論は「どんなものでも批評でありうる、しかし、よりよい批評とは、その批評自体に対する理由付けの如何によって変わる」ということである。私たちは「正しい批評」が存在すると考えては決していけない。「批評」は、「批評」をつねに自己「批評」する過程において成立する。それは極めて動的な「行為」なのである。


散文(批評随筆小説等) 「批評」の「根拠」について Copyright ななひと 2003-09-03 13:56:18
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