批評祭参加作品■吉野弘氏への手紙
服部 剛

 今僕は、ショパンの曲を聴きながら、以前古本屋で手
に取った「吉野弘詩集」を開いています。薄く赤茶けた
表紙の中心には太陽らしきもののデッサンが描かれてい
ます。なにげない日常の場面を描いた「夕焼け」という
詩は、だいぶ前に初めて読んだ時から印象に残り、その
詩情はいつまでも心から消えることなく生き続けるのは
何故だろうと問いながら、僕はふたたびこの名詩を読も
うとしています。 



いつものことだが 
電車は満員だった。 
そして 
いつものことだが 
若者と娘が腰をおろし
としよりが立っていた。
うつむいていた娘が立って 
としよりに席をゆずった。
そそくさととしよりが坐った。 
礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。
娘は坐った。
別のとしよりが娘の前に
横あいから押されてきた。
娘はうつむいた。
しかし
又立って 
席を
そのとしよりにゆずった。
としよりは次の駅で礼を言って降りた。 
娘は坐った。 
二度あることは と言う通り 
別のとしよりが娘の前に 
押し出された。
可哀想に 
娘はうつむいて 
そして今度は席を立たなかった。
次の駅も
次の駅も 
下唇をキュッと噛んで 
身体をこわばらせて----。 
僕は電車を降りた。
固くなってうつむいて
娘はどこまで行ったろう。 
やさしい心の持主は
いつでもどこでも 
われにもあわず受難者となる。
何故って
やさしい心の持主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。
やさしい心に責められながら 
娘はどこまでゆけるだろう。
下唇を噛んで
つらい気持で
美しい夕焼けも見ないで。
 

 誰もが身を置く電車の中で(いつものことだが若者と
娘が腰をおろしとしよりが立っていた。)という詩が始
まって4〜6行目ですでに、人間の自己中心性と、この
世の縮図が垣間見えます。この詩の中で一番姿が浮かび
上がる(うつむいた娘)が二度としよりに席をゆずった
その美しい心は、無情なこの世の片隅にそっと咲く一輪
の花のようです。 
 娘が席を立ち、立っていたとしよりが腰をおろす、そ
のひと時の間に「人としてかけがえのない 何か 」があ
るのを感じます。二人目のとしよりに席をゆずった娘も、
三人目のとしよりには席をゆずれなかったという人の心
の弱さにまなざしを注ぎ、うつむく娘に(可哀想に)と
語りかけるところに、この名詩の本質があるのでしょう。
そして、電車を降りた僕が駅のホームに立ち、美しい夕
焼け空をみつめながら、三人目のとしよりに席をゆずら
ず、(下唇をキュッと噛んで身体をこわばらせた娘)に
想いを馳せ、(やさしい心の持主はいつでもどこでもわ
れにもあらず受難者となる。何故ってやさしい心の持主
は他人のつらさを自分のつらさのように感じるから)と
心に呟くところにこの詩の核心があり、読者の心に消え
ることの無い灯をともすのでしょう。
 今から五十年前に書かれたこの一篇の詩の中にいる娘
は、いつまでも読者の心に生き続けるでしょう。そして、
(やさしい心に責められながら)電車の席に坐り、何処
かの駅へ運ばれてゆく娘に(可哀想に)というまなざし
を注ぐあなたの詩魂を、かけがえのない宝物のように、
僕はそっと胸にしまい、この詩集のページを閉じること
にします。 


  * 文中の詩は「現代詩文庫12 吉野弘詩集」
    (思潮社)より引用しました。  








散文(批評随筆小説等) 批評祭参加作品■吉野弘氏への手紙 Copyright 服部 剛 2008-01-29 22:26:10
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