批評祭参加作品■砕かれていること
石川和広
作品を提出するときに、やっぱり自分だけではこれがいいものかどうか、とても心もとない気がいつもしています。
僕はおうおうにして物知りのように大きく語るわけなんだけれど、何となくいいものだという予感はあっても、どきどきする。作品を出すというのはこの弱気の虫があるから尊いのではないかと思ったりする。
ニーチェや最近ではバタイユにひかれるのは、彼らは自分の着想に自信を持っていた反面、自信のなさや、仮説を立てては、ああ、ちがうという予感に砕かれて、何度もやり直すということがあるからだ。
バラバラに砕かれて、頭が真っ白になって、へたりこんでしまう。こういう体験が彼らのテクストの表面からは見えないけれど、フランス風のエッセイ思考を好んだニーチェは、だから、その瞬間の着想を短く書き留めるという方法を取ったのではないかと思う。小林秀雄の言うようにニーチェは健康の問題を抱えていたからそうだともいえるけれど。僕は小林とは違う感じを持っている。
彼らが何に砕かれていたかというと、昔風に言うと神の啓示といえるかもしれないが、「神は死んだ」や「無神学大全」の人たちはそう表現できない。
ニーチェは「人は三分とひとつのことを考えることができない」といったが、時間と思考はそういう関係にあるのだろう。集中力があろうがなかろうが同一性が砕かれ、時間の中に断絶が出来る。こちらの方が人間の思考の生理に近い。
時間というのは線でありつながっているというイメージが強いが、実はそうでもないようなのだ。こないだ統合失調症の病理に絡んで、計見一雄という精神科医が云っていたが、彼は道元を引用している。
道元は時間というのは生まれて(現成)してはその瞬間に無に帰すといっている。時間は不連続なのだ。
だとすると、時間はずーっと延びているのではなく、真っ白の瞬間がある。人間だってしょっちゅう呆けていることになる。健康な人間は適当に呆けることができるのかもしれない。ずーっと呆ける事ができず緊張している人はこの世界から糸が切れたように深い混迷に入る。
ニーチェも晩年呆けてしまった。バタイユの父は進行性の梅毒で脳をやられ精神障害だったそうだ。そのことがバタイユに影を与えている。
バタイユは、真っ白になってしまう時間にも精緻な思索と等量の価値を与えたのではないかと思う。詩を書く上でも、自分の底に「白痴の自分」を置くこと。それは自己の作品をより完璧にすることではなく、より儚いもの、砕かれたもの=死のようなものとして提示することに必要である。
一方に完成の意志が働いていることが重要である(バタイユには大向こうにヘーゲルがいたし、ニーチェにはプラトンやいろんな人がいた。それとの勝負で「弱さ」が重要だったのだ)が、自分がより砕かれバカになって行くことは詩には必要だと思っている。自分がそこに届いているかはわからないけれど、だからこそ、こういうふうに書いておく。きっと粉々に砕かれた人は私が書くようには書かない。力説するより、その過程を黙って曝しているはずだ。
三つ子の魂百までという。僕は自分の変わらなさを味わう。けれど、僕は自分の変わらなさをとことんまでは味わっていないと思う。自分のどうしようもない変わりがたさを味わい続ける過程が恐らく「内的な変化」といえるはずだ。その変わりがたさは一生くみつくせることはないだろう。そのようなわからなさが恐らく意味の源泉である。意味とはわからないものが放つ無限の色彩と音楽だろうか。
2007.9.22初出(後部分的に改稿)
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第3回批評祭参加作品