批評祭参加作品■「 寝た子は起こすなそやからおちんちんについて勃起しないで考えてみる。 」
PULL.







『おちんちんをおちんちんと意識して確信したのはいつか?』と問われると、これは非常に答えにくい、何しろ股間の沽券に関わる問題である(しかも股間の保険には未加入だし)。少なくとも「のぼり棒との禁断の出逢い」よりも前であることは確かだし、「ひとりでおしっこできるもん」状態になった後であることも、確かである。
 古ぼけたトラさんとウマさんの秘密の履歴書を紐解いてみるならば、小学校の低学年の時に近所のお祭りにお稽古ごとをさぼってひとりで行って、真っ赤な唇をしたおねえさんに声を掛けられて連れられて境内の裏で、まだつるつるちんだったおちんちんを「撫で撫で」してもらって「おこづかい(五千円!だった)」をもらったのに、何だかすごく悲しくて不安になって近くのどぶ川の橋の上から泣きながら、五千円札(当時は樋口一葉ではなかった)を破り捨てたまさにその時ではなかったか、そして、半ズボンの中で(パンツはおねえさんが持って帰った)まだ痛いぐらいにむくむくしているおちんちんを押さえ付けながら(抑え付けることはできなかった)、むらむらむらむらと胸の奥で渦巻き込み上げてくる「あの」ものの中で『そうか!おちんちんとはそういうものなのか!』と確信したのではなかったか。
 だからおちんちんをおちんちんだと確信した後、おしっこをする手の中のおちんちんに向かって『これはお前のほんとうの姿じゃない』と突き放し、またのぼり棒との禁断の放課後に耽溺しながらも『お前はぼくのほんとうの相手じゃない』と冷たく毒づき(だがのぼり棒はさらに冷たく「冷鉄」だった)、時折朝に「ほんとうの姿」を見せるおちんちんにどこか後ろめたい安らぎと「回帰感」を覚えるのは、当然のことだったのかもしれない。

 好きこそ物の何とやらというらしい、小学校の高学年になる頃にはもうすっかり、おちんちんと、それにまつわる様々な現象と結果とどきどきと幻滅について、知るようになっていた(だがまだ今も「知り尽くして」はいない)。実際にそれを体験したのは中学の頃で、すでに頭の中で何度も何度も繰り替えし予行練習をしていたことを、「なぞる」のは、ひどく落ち着いた行為で、心臓がじょじょに冷たくなってゆくのが相手に知られてしまわないかと、そればかりそればかり気にしながら、行為を続け、終えた。
 オナニーを覚えたのは、その後だった。
 行為の後それを、誰にも言うことはなかったが(言えないややこしい関係だった)、それでも授業の最中や部活の練習の最中に、ふと、想い出してしまうことがあった。そんな時は、おちんちんに命令して(おちんちんに命令をするのは小学校の時に覚えた)主張を思い止まらせ、後で、家に帰って、夜。家族が寝静まるのを注意深くじりじりと待って待ち続けてから、続きを想い返し、小学校の頃に調べ一度実行しようとして途中で虚しくなって止めた「方法」で、そう、したのだった。

 さて、これを書きながら過去のあれやこれやエロやを想い出して勃起しているのかというと、勃起しながら書けるほど筆者のおちんちんは器用ではない、実際のそれのときは相手の状態を確かめ感じながら、する、が。それを書くときはまた違う、しずかな冷静さで、仕留めるように、書いて、いる。
 おちんちんは器用じゃない執念と修行によってほんの少し、ちょっぴりの「芸」は身に付けられるけれど、おちんちんはそんなに器用じゃない年々、だんだん器用じゃなくなってゆく、おちんちんは、こまったやつなのだ。しかも極端な遅漏でいつもこまらせているの(因みに、早漏よりも遅漏の方が女性のウケがいいのかというと、実はそうでもない。延々延々射精しないおちんちんのずっこんばっこんに付き合わされる女性器は腫れ上がることもあるし、それに何より相手の「女性としてのプライド」を傷付けることもあるのだ………)だがそれはまた別の話で、別の機会に書くのかもしれないし書かないのかも、しれない。












           了。



散文(批評随筆小説等) 批評祭参加作品■「 寝た子は起こすなそやからおちんちんについて勃起しないで考えてみる。 」 Copyright PULL. 2008-01-28 02:20:21縦
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第3回批評祭参加作品