批評祭参加作品■余白の海についての試論
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北川透は「詩的レトリック」の中で、詩における「余白」のあり方をいくつか挙げている。それらをまとめると「定型に伴う余白」「観点の移動を表す余白」「意味上の展開を媒介する余白」「二つの片歌の問いと答えの間の余白」「意味の流れの切断としての余白」となるが、しかしこれらはただ単に「余白の機能」を列挙してあるだけであって、詩における、またはテキストにおける「余白の概念」というものについて何ら考察を加えているわけではない。それらは「余白の分析」であって、余白の本質に関わるものではない。「余白」という海に向けて出航するにあたっては、まず「余白」という海図を素描する必要があるだろう。その鍵となるものこそ群島(archipelago)なのである。
今福龍太によれば「archipelago」とは「archi」が原型・祖形といったギリシャ語の接頭語であり「pelago」が「海」ということであるらしい。「その上で辞書を引けば(中略)二つの訳語があって、『群島、列島』という訳語と『多海島』という訳語」となる。すると、「群島という概念には、ネガとポジがヒュッとひっくり返るような動きがあらかじめはらまれている。」*11ということになる。これを「テクスト」と「余白」に当てまめることもできるだろう。だが、ここでは文字通りそれを「島=言葉」と「海=余白」として考えよう。なぜならば、「海」とは「表面」として光を反射する「鏡」であり、汲みせぬ余剰であり、グリュッサンの『<関係>の詩学』に掲げられている詩句のように、海面上とは「統一」であって「海は<歴史>」だからだ。そして、それはドゥルーズの「空虚な桝目と位置なき所有者」という言葉と同義の「パラドックス的審級は、鏡である。」といった言葉にと共に裏付けることができる。またそれは局所的にはデレック・ウォルコットの「カリブ海に住む私達多くのものは、いまなお多島海(archipelago)の理想を持っていますが、それは皆さんがここで、アメリカと名づけられた隠喩を手放さないのとまったく同じことなのです。」という言葉が示しているように、「アメリカ」へと広がっているのである。
書物」を「言葉=島」と「海=余白」という「全‐世界」、として思考すること、そのような「列島的思考は我々の複数世界の歩みに合致している。(中略)それは迂回の実践を容認する。(中略)それは<痕跡(トーラス)>の諸々の想像界の射程を認知し、認証するものだ。
その<痕跡(トーラス)>こそ吉増剛造が指摘した「傷の多島性」「傷を蓄積するような海との関係性」ではないだろうか。そして「言葉=島」と「海=余白」とで構成された「全‐世界」という「列島的思考」によって、吉増剛造の「書物」をあらゆる『航海日記』として読むことが必要なのではないだろうか。そして、このような「列島的思考」こそ、新たなテクスト読解性として、「群島的テクスト読解性」として、船の尖先(Style)を向けるべき方向であるように思われる。
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第3回批評祭参加作品