批評祭参加作品■僕たちの罪は、どうすれば癒されるのだろう
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yuko「まいそう」
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*この論考はひとつの詩作品に対する考察でありながら、ある「歪んだ妄想」に関するネタバレが含まれている。

“貝殻のなかに/浮標の鈴のようにはっきりと死を読みとる”
                ―――ディラン・トマス

"貝殻は、人が死ぬのは間違っていると、耳元でささやく。"
                ―――ジャン−ミッシェル・モルポワ

 「まいそう」における特権的なイマージュ―――「かいがら」について語りだそう。「空間の詩学」のなかでガストン・バシュラールは「貝殻」という物質が詩人に喚起させる想像力を分析した。「貝殻」に封じられた潮騒の響きに耳を澄ます前に、まずはその言葉に耳を傾けよう。「貝殻にはきわめて明瞭、確実、硬質な概念が対応するので……これについてかたらなければならない詩人は、さしあたってイメージに不足する。……形状がしめす幾何学的現実によって引き止められてしまう」*1。たしかに「まいそう」のうちで言及される「かいがら」はその形殻についてのイメージを持っていない。その形象だけをみれば、細かく砕かれるだけの「空っぽな貝殻」にすぎないだろう。

 だが、大いに結構! この貝殻は「美しい耳を模造し」「桃色の きみの頸」のごとき、詩人を「何より一つ、悩ました貝」ではないのだから*2。私はこの「まいそう」という作品自体がひとつの「かいがら」であることを示そう。私の目指すところは、そのような「隠れ家の夢想」*3、そこに象られた模様―――「BAROQUE」、あるいは「歪んだ妄想」を描き出すところにある。

 さしずめ、この詩の水の流れるうちに「かいがら」を見つけ出そう。まず「わたし」は「かいがらをみつけるたびに、冷たいみずで洗う。」(第一連)。「それからひらべったい岩のうえで、かいがらを細かくくだ」き、「そっとへやへもどると、かいがらたちを、いちまいいちまい、棺のうちがわにはりつけていく。」その行為は「まいばん、棺にかいがらをはりつけていくこと、きっとそれが、わたしの祈りだった。」(以上第三連)。最終連に当たる第四連に「かいがら」という単語は登場していないが、代わりに貝殻を貼り付けられた「棺」の「そのふたを閉じ」られた姿、その形体が「二枚貝」を連想させるに相応しい「かいがら」のイマージュを見出すことができる。

 この最終連で見出された「かいがら」というイマージュは、改訂によって生み出されたことに言及しておく必要がある。互いに向かい合わせにある二つとして同一のテクスト―――改訂を施された一編の詩。それぞれに表される違いを考察することは、二枚貝に挟まれた青空を精査することに等しい*4。推敲を重ねていくという作業は、「付け足し」「削除」「書き換え」といったことの単純な反復ではない。それは互いの稿を反復として差異を作り出していくこと―――その差異を作り出すのは作者である「わたし」であるのだが―――作品の「質」を更新していくことである。第二稿で大幅に付け足された最終連の記述は、古い殻を脱ぎ捨てるような「脱皮」ではなく、むしろ繭の中で溶かされた皮膚の構成物質が羽根の神経組織へと転用されていくような「飛躍」であると見なすべきである。

 このように作品は作者、あえて言うなれば「わたし」にとって生成されていく。ところで、バシュラールは貝殻のイメージの持つ「大きなもの/小さなもの」、「自由な存在/鎖につながれた存在」、「隠されたもの/明らかなもの」といった弁証法を強調している*5。それは彼の「もっぱらイメージを想像力の過剰と見なす方法」*6によるものだが、この弁証法を別のところで「(現実的なものと想像的なものとの)交互の状態を生きるだけでなく、現実が夢の一潜勢体であり、夢が一現実であることが理解されるアンビヴァランスにおいて、これらの状態を統一すること」*7としている。バシュラールにおける「弁証法」なる語の用法について深入りはしないが、彼にとっては「現実的なもの/想像的なもの」(あるいは「主観的認識/客観的認識」とも言えるだろうが)との交叉する統合の地点にあるものこそ「物質(性)」であると言ってもいいように思われる。しかしながら、そのような弁証法的な対立が同時に含有されるパラドクサルな地点、先の表現を使えば「大きなものでありながら小さなもの」、「隠されたものでありながら明らかなもの」といった、不思議の国に迷い込んだアリスが経験したような地点にあって、はたして「物質(性)」はその性質を保つことができるだろうか? そして、作品=「わたし」であるような地点においては?

 このような問いは、さしあたり「一回で二つの方向[=意味]へ行くこと、射ることが、生成することの本質である」*8という地平へと落ち着かせることにしよう。そのような生成の地平にあって、「改訂」という差異化の運動は、作品/作者といった区別を(逆説的にではあるが)巻き込み、「書かれる(べき/ための)平面」としての「余白」、あるいは「内在平面」として解消させる。「まいそう」においては、「改訂」によって作品形式の構成が変化しているが、それは狭められると同時に拡張されるような「余白」の砂原において持続するのである。そして、そのような「内在性の浜辺」において、「まいそう」における存在者は「かいがら」としてのBAROQUE*9として、「ひとつでありながら、ひとつでなく、バロックはすべてのもののなかに」*10ある。なぜなら、「まいそう」されるものは「かいがらに埋もれてしまうだろう」(第三連)から。

 すなわち、この詩に現われる「わたし」とは「自然」である。スピノザの「神」が即ち「自然」であるように、そのような意味において、「わたし」はこの「せかい」に属している。「あしくびのアンクレット」として現われる「わたし」の身体は、けっして“せかい/わたし”という分け距てられた存在ではなく、あくまで“せかいの延長”としての一義的な内在性としての身体なのである。また、あえてこういうならば、それは「襞」としての身体、それもこの詩の形体をつかさどる「かいがら」―――「BAROQUE」の表面に象られた「襞」の部分なのである。それは、

            そらをささえる無
数のあおじろい手首が、そこかしこで松明を
かかげ、星ぼしを繋ぐあわい糸が夜空にうか
びあがる。

 このようにして「襞」(としての身体)は「松明」によって、そのシルエットを闇に浮かび上がらせる。あるいは「そうしつによって、完成させられた」「奇形児たち」(第二連、第三連)という姿として。「そうしつ」としてその歪な輪郭を現す「奇形児」という「BAROQUE」もまた、この詩の「かいがら」という「襞」の一部分であるのだ(それを導くのもまた「潜水艦のサーチライトみたい」(第二連)な光であることを確認すべきである。「BAROQUE」の歪められた形態は、光によってその形式を獲得する)。

・僕たちの罪は、どうすれば癒されるのだろう?

 最終連において、さながら「綺麗な水」を求めるあのイライザのように「わたし」は祈る。それも、「わたしもまた名前をもたず、祈るすべさえあいまいなまま」、「いつかえいえんまで、舟をこいでいこう」(最終連)と願われる。ここで展開されるイメージについては、私としても再びバシュラールにご登場願おう。

死が水のなかに存在するのだ。われわれはこれまで葬送の航海のイマージュをとくに喚起してきた。……(水は)完全な分散状態におけるわれわれの存在の滅亡を知らせるのだ。……水はもっと完璧に分解する。それはわれわれを完璧に死ぬように手助けをする。*11

 身投げした「奇形児たち」は、海の水のなかにあって、その肢体のとどまるところを私たちは知らない。それはバシュラールの指摘の通り、あるいは「あおいはねの蝶が鱗粉をまき散らして」(最終連)いるように、分散した状態にあるのかもしれない。しかしながら、そのような分散は、砕かれた「かいがら」を「まいばん、棺にかいがらをはりつけていくこと」(第三連)という行為によって、あいまいな「祈り」のもとに集約される。しかも、その「祈り」はエクリチュールを伴わない。それは砕かれた「かいがら」を「かれら」へとして贈/送ること、ただそれのみである。あたかも「綺麗な水」という結晶を、イライザあるいは同相の存在者である「欠落のために生み出された」マリアに贈/送るがごとく……。だが、それは「奇形児たち」の「そうしつ」を埋め合わせるのではなく、新たに「BAROQUE」の形象を「棺」へ、またはその「かいがら」のイマージュに生み出すことである。

 なぜなら、「わたしたちは、どうしようもなくゆるされている」(最終連)といった留保なき赦しは、おそらく生成の過程の最中にあるからである。それは「かいがら」がイマージュとして現われたこの最終連のほとんどの部分が「改訂」によって書き出されていることと連動している。そして、最後に書き足された「せかいじゅうのわたしたちにひとつの名前と、ねがわくば一輪の花をそえて。」(最終連)という一文によって、「わたし」である「せかい」は、いつか「ひとつの名前」―――「赦し」という徴を、そして「死」を与えることを言明する。それらは同時に「せかい」としての「わたし」にも自ら与えられるのであり、「あさやけ」のごとく光をもって「BAROQUE」としての「まいそう」、あるいはその歪みを自己として生成し続けることでもあるのだ。


脚注
*1 ガストン・バシュラール「空間の詩学」筑摩書房、2002、196p
*2 ポール・ヴェルレーヌ『Les coquillages』
*3 同、バシュラール「空っぽの貝殻も……隠れ家の夢想をよびさます」199p
*4 なぜなら、そのような考察は「貝/sciell」という古い単語の中に「空/ciel」を見つけることと同じである。
*5 同、バシュラール、pp203-205
*6 同、バシュラール、206p
*7 ガストン・バシュラール「空と夢−運動の想像力に関する試論」法政大学出版局、1968、p19
*8 ジル・ドゥルーズ「意味の論理学」河出書房新社、2007、16p
*9 このようにして「まいそう」を「かいがら」として一義的に位置付けてしまっても、何ら問題はない。なぜなら「BAROQUE」とはその語源において「歪んだ真珠(Barocco)」を意味しているからだ。
*10 ムービー「われらの主あらざる多重神格者よ」、PS2『BAROQUE』、sting、2007
*11 ガストン・バシュラール「水と夢−物質の想像力に関する試論」国文社、1969、137p


散文(批評随筆小説等) 批評祭参加作品■僕たちの罪は、どうすれば癒されるのだろう Copyright 2TO 2008-01-27 23:12:56
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