批評祭参加作品■「 この際なので批評祭の主催者をちょっぴり意地悪くイジってみる。 」
PULL.







「批評祭参加作品■オリジナリティ幻想・忘我」
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=146495
相田 九龍
(題名の「」は本文と区別するために作者の了承なく勝手に付けた。)


 もう書き出しのところから「ダメだこりゃ。」本ネタに入る前に作者が脳内でオナニーして射精してしまっている(筆者にはそう読める)ので、「前戯」も何もあったもんじゃない。これでは読者は作者の射精した精液の後始末をさせられているティッシュである。しかもそのティッシュは鼻水だか前回のオナニーだかにも使われた「使い回しのがびがびのティッシュ」である。

 早漏でもいいのだ、じっくりと時間と観察と情熱と自問自答と悶悶と愛情(筆者的には愛情は別になくてもいいけど…)を掛けて、作者の考えている「オリジナリティ」とやらについて「前戯」をして説明してくれれば、読者はちゃんと(それなりに)答えて、応えてくれるのだ。これでは「こたえる」ではなく「堪える」になってしまっている。
 作者の相田九龍氏が読者との関係を絶ち、孤高や孤独を気取るタイプなら、このまま「堪える」書き方を続けても一向に構わないのだろうが、各所での発言や今回や前回の「批評祭」の主催者を(無謀にも)買って出る姿を「読む」と、そうではない人物に、筆者には「読める」のである。
 例えばまず、野球選手のスイングや、ピアニストのタッチについてなど、読者にとっても解りやすいオリジナリティーの「実例」を出して、読者を「あたためて」から、それから、本ネタに入る。そうすれば多少すっとんだ「ネタ」でも読者は意外とすんなり、「読んで」くれる。読者はわがままで自分勝手で意地悪でくそったれな存在だが、それを書いた作者以上に「それ」について知っているし、想像力もずーーーっとすっとんでいる。 

 ここから、意地の悪い「読み」を、する。
 この作者には、読んでくれる読者に対する「不信感」のようなものがあるように、またその「不信感」に対して「堪える」だけの耐性が「弱って」いるように、読んでいて感じることが、ある、多々ある。この作者は、読者に対して身を預けていない、許していない、だから読者は「あたたまる」こともなく、「前戯」もなく射精された、徐々に「体温」を失い冷たくなってゆく精液を拭き取る「使い回しのがびがびのティッシュ」に、なるのである。
 この作者にはこの作者の考える「この作者のそうあるべき姿」があり、それは、幻想であるように筆者には「読める」し、そうやって自分を囲い込むのもまた、オリジナルではなく、ありふれた人間の姿に、読める。ありふれた「幻想」を抱える作者が『オリジナリティは幻想だ。それぞれはそれぞれである。それ以上でも以下でもない。そして、私は私だ。』と書き「伝えたい」のなら、「戦場」だの「ニヒリスト」だの「サン=テグジュペリ」だのといった「便利な薄っぺらい道具」を使うのではなく、もっと臭いのする、くさい、体臭のする「道具」あるいは「肉体」を使って書く方が、この作品にも、作者にも、向いているのではないか『僕にあなたが触れること。あなたに僕が触れること』とはそういうことなのではないか(「満員電車」の例えの部分はもっと「抉って」書くべきだし、筆者は「それ」を読みたい)。

 とはいえこれさえも、こんな文章さえも、手垢の付いた「どこかで読んだことのある聞いたことのある」オリジナリティーのない幻想のような屁理屈にすぎない。しかもいくらどんなことばで書いて伝えたところで、相手に、誰かに、「読んで」もらえなければ、書いたことすらもないただの「幻想じみたひとりごと」になるのだ。
「触れる」ことはできなくても、「読む」ことも「読まれる」ことも「ここ」ではできる。投稿の後、これは筆者の「幻想じみたひとりごと」で終わるのだろうか、それとも、












           了。



散文(批評随筆小説等) 批評祭参加作品■「 この際なので批評祭の主催者をちょっぴり意地悪くイジってみる。 」 Copyright PULL. 2008-01-27 04:58:17縦
notebook Home
この文書は以下の文書グループに登録されています。
第3回批評祭参加作品