批評祭参加作品■喪服の者たちが向かうところ
岡部淳太郎

 ビートルズに「Baby's In Black」という曲がある。世界的大成功を収め、現在に至るまで影響力を失っていない彼等にしてはあまり有名ではない地味な曲で、その後、ただのラヴソングではない歌をいくつも生み出していくことの前触れとなるような、奇妙なラヴソングだ。語り手の男はある女に思いを寄せているが、彼女はいつも喪服のような黒い服を着ている。彼女には男がいたが、その男は去ってしまった。おそらく死んでしまったのだろう。そのために彼女は悲しんで黒衣を着ているのだ。直接うたわれているわけではないが、語り手の男はそんな彼女に対して過去を捨てこれから先のことに目を向けてくれと言っている。もちろんその「これから先」の中には、自分とともに未来を歩んでほしいという語り手の願望がこめられている。
 親しい者が亡くなると、人はいわく言いがたい感情に包まれる。それは悲しみというとおりいっぺんの感情だけではない。それは淋しさであったり、悔しさであったり、茫然自失の無感情のようなものだったりする。それらの複雑に交錯しからみ合った感情をひとことで総括するなら、混乱という言葉がもっともふさわしいかもしれない。
 個人的な話になるが、私は四年前に妹を失っている。その直後の自分の感情はまず第一に何が起こったのか理解出来ないという非現実感であって、妹が亡くなった当日は本格的な悲しみの感情はやってこなかったように思う。ところが翌日になって、報せを聞いた叔母と従姉妹の二人が家にやってきた時に激しい悲しみに襲われた。親戚とはいっても普段は離れた場所に住んでいてほとんど顔を合わせることのない彼女たちの前で、私は激しく泣いた。通夜や葬儀の時はそれを滞りなく進めるのにせいいっぱいで悲しんでいるゆとりはなかったが、日にちが経って普通の日常に戻った時に、ふっとフラッシュバックのように悲しみが舞い戻ってくるという体験を何度もした。電車に乗っていて乗客たちを眺めている時に、ああ、この人たちは俺が妹を亡くしたばかりだということを知らないんだ、俺の妹が死んでも世界は変らずに回りつづけているんだと思ったり、当時勤めていた会社で仕事中に急に悲しくなって、ひとりで外の駐車場にうずくまって泣いたりということがあった。このようなことは、親しい者を失った後の喪失感からその存在がもういない状態の日常へと強制的に移り変らされ、それに慣れていく過程で起こるもので、変な言い方だが心が痙攣しているような状態なのだろう。
 妹が亡くなった後、そのことをテーマにした詩や散文をいくつも書いてきた。直接的なテーマとすることもあったし、サブテーマとして扱うこともあった。それらの詩や散文を書くことによって、妹の死という重い現実からの精神的リハビリをしているような感覚がはっきりとあった。妹の死から今年で四年が経つことになるが、さすがにそれだけの時間を経てしまえば当初の激しい混乱や悲しみからはぬけ出してしまっている。それでも変らずこのテーマは自分にとって切実なものであるので、私は今後も妹のことを書きつづけるに違いない。たとえそれが妹の死を詩作に利用していることになっているのだとしても、私は変らずにそれをつづけていくことだろう。
 私と同じように親しい者の死を扱った詩作品はいくつもある。有名なのは宮沢賢治の「永訣の朝」などであろう。近年でも高階杞一の「早くうちに帰りたい」という名作がある。また、ネット上でもそのような詩が散見されるが、気になるのはそれらの詩を書いた後で、書き手はどこに向かうのかということだ。喪に服することを服喪という。喪服という言葉の漢字を入れ替えた言葉だが、これらの死をテーマにした詩を、仮に「服喪詩」または「喪服詩」と呼ぶことも可能かもしれない。私の感じ方だと、別に親しい他者の死を扱っていなくても、それらの詩と似たような表情を持つ詩がある。それは語り手と作者がほとんどイコールになっていて、精神的な変調などの作者の内面の苦しみがつづられているようなタイプの詩だ。それらは多くの場合、作者自らの内面を見つめることにのみ集中していて、その裏で自らが死や破滅といった場所に落ちていくことを危惧または予見している。そのような詩の場合も、やがて訪れうる自らの死を予見して自らのために喪服を着ているようなものだ。過去に訪れた他者の死とやがて訪れるかもしれない自らの死。向いている方向はまったく正反対であるものの、詩の中で喪服を着ているという点では同じであるので、これらの詩を総括して「喪服詩」と呼んでみたい。また、これらの詩がこのような同じ言葉で総括されうるのは、他者の死であろうと訪れるかもしれない自らの死であろうと、語り手にとって取替えの利かない大切な事象が扱われているために、時に周囲の事物に対して盲目になってしまいかねない点が非常に似通っているためでもある。
 喪服の特徴をただひとことで表すとすれば、それは黒いということにつきるだろう。喪服は黒い。その夜の闇のような根源的な色は、目立たないと同時に異様に目立つものでもある。地味な色であるために目立たず、身を隠すのに好都合のように思われるが、しかし様々な色彩があふれる普通の日常の中にあっては、逆に目立ちすぎるほど目立つものだ。街中や住宅街などで葬儀の行き帰りのような喪服の集団にでくわすことがしばしばあるが、それを見ると誰しも一瞬ぎょっとするものだ。それは彼等を見ている私たちが普通の日常の中にいるため、そこから離れた者たちとして彼等を見てしまうからなのだ。つまり、黒というのは日常的な色ではない。私たちが日常にふさわしい様々な色彩の衣服を身にまとっているのに、彼等の着ている黒衣には日常ではない夜の闇のような宇宙の深淵のようなものが沁みこんでいる。また、喪服からすぐさま葬儀、人の死というものを連想してしまうので、死が持つ非日常性や葬儀が持つ一種の儀式性も、私たちをぎょっとさせる理由になっている。ともかく日常に慣れきった人間からすると、黒という色の放つ非日常的なこの世のものならぬ感覚は脅迫的ですらあり、そのために人を驚かせとまどわせる効果を持っている。
 それは詩においても同じことで、過去の他者の死を扱っていようと未来の自分の死を扱っていようと、それらの詩の表情はいちように重く黒い。よくネット上などで自傷などの内容が語られた技術的に稚拙な詩を見ることがあるが、その時に感じる読者のとまどいは、街中で喪服の集団に遭遇した時の感情とそう大差はないと思われる。また、先ほど黒は目立たないと同時に異様に目立つ色だと書いたが、「喪服詩」における語り手または作者の場合も同じで、他者の死を扱った詩の場合は語り手よりも彼の語る死者が主人公であり、そのため語り手が一歩後退して親しい死者を哀惜しているように見えるものの、親しい者を亡くしたという事実のために語り手の感情が逆に目立ってしまっている。訪れうる自らの死を扱った詩の場合は、精神的な変調その他のために語り手は自らを取るに足らない存在だと見做していて、そのために「詩の中で描かれた社会」から一歩退いているが、内向きになった感情を詩の形で外に向かって発信しているために、そこには非日常的な装いが与えられて語り手とその感情が目立ちすぎるほど目立つものになってしまっている。
 そこで先ほどの設問に戻ろう。詩における喪服の者たちが向かうところはどこか? 普通の社会では、喪服から日常の衣装に着替えた後はそれにふさわしい生活に戻り、心の中も死者のことをひとまず脇に置いてその者がいない日常生活に慣れていくことが要求される。最初に挙げたビートルズの「Baby's In Black」の語り手のように、いつまでも過去に留まっていないでこれから先のことに目を向けてくれと、社会全体から要求されているのだ。端的に言ってしまえば、「喪服詩」の語り手または作者たちに対しても、同じようなことが言える。訪れうる自らの死を思って感情が内向きに震えているような詩の場合は特にそうだと言える。向かうところはどこか? などと言っても、そこに留まっている限りはどこにも向かいようがないだろう。だが、他者の死を扱った詩の場合は少々事情が異なる。詩という表現形式そのものが一種の非日常であり、なおかつ死という重い事実のために、読者はそこに一定の価値を見出すだろう。少なくとも、ただ自己の内面を見つめているだけの詩よりも読者の賛同を得られやすいと思う。だが、それだけでは自分は親しい者を失ったのだという感情に居直ることにもなりかねず、自傷的な自らのために喪服を着ているような詩と同じ自我偏重の罠にはまってしまう危険性がある。私自身も妹の死の直後に書いた詩とその少し後に書いたものとでは、同じテーマを扱っていてもトーンに違いがある。簡単に言ってしまえば落ち着いてきたということだが、死という残酷な現実とその中に放りこまれていた自分を客観的に見られるようになってきたのだ。いつまでも慟哭していては一辺倒の調子になってしまうし、ひとりの詩の書き手として向かうところを思えば損でもある。親しい者の死というのは確かに大切なテーマではあるが、たったひとつのテーマに規定されてしまうのはもったいない。それを捨て去るのではなく、自らの中で温めて、時には取り出して吟味してみることも必要だ。その間に他のテーマで詩を書き、また時々思い出して親しい他者の死について書いてみる。それを繰り返すことによって、ひとりの書き手としての「私」が向かうところがおぼろげながらも見えてくるのではないだろうか。
 ビートルズの「Baby's In Black」で、語り手が思いを寄せていた女のその後は語られていない。果たして語り手の呼びかけに彼女は振り向くだろうか? それが語り手とともに歩む未来でなくても、彼女がいつまでも悲しみの場所に留まりつづけていることを、死者は決して望んではいないだろう。



(二〇〇八年一月)


散文(批評随筆小説等) 批評祭参加作品■喪服の者たちが向かうところ Copyright 岡部淳太郎 2008-01-26 22:22:04
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