批評祭参加作品■「 そやから何で阿呆やねんやろとツッコミ待ちで考えてみる。 」
PULL.







 阿呆である。「あほ」ではない「う」の付く「あ、ほ、う」である。できれば「う」の部分に歌心を持って言ってもらいたいのだが、それは筆者の好みの問題なので、だからどうだと押し付けるつもりもないので安心して阿呆していただきたい。
 さて阿呆である。阿呆って何なのだろう?馬鹿とどう違うのだろう?そう考えるだけで筆者のような阿呆は、三日三晩ぐらい眠り込んでしまいそうなのだが、それは筆者が阿呆であるのが関係してるのかどうかすらも考えるだけで阿呆みたいなので、よくは解らない。
 また阿呆である。ついさきほど「阿呆みたい」と書いたが、「みたい」ではない、これは、「阿呆そのもの」なのである。「阿呆みたい」と「阿呆そのもの」との間には「北緯三十八度線」よりも暗い河が、いつの時代も流れているのである。その暗く冷たい河を泳ぎ越えて知性からの越境を果たしたとき、我々ははじめて、身体の隅々まで染み付いた「阿呆みたい」が洗い流され、「阿呆そのもの」に生まれ変わるのである。
 またまた阿呆である。この書き方も四度目の阿呆である、なのでこれを読んでいるあなたからもそろそろ「四度も同じ書き方を続けるなんて、やっぱこれを書いてる人って阿呆なんだ。」と思われているかもしれないが、阿呆なのである。阿呆とは日常であり人生なのである。日常といえば筆者は友人知人に対して「阿呆かおまえ。」と思うことはない、「阿呆やなおまえ。」としみじみ確認するのである。類が友を呼ぶように、筆者の阿呆が阿呆の友人知人を呼んでいるのではないことは、阿呆の友人知人の名誉のため、ここで断言しておく。
 阿呆は、群れるものではない、阿呆は、自らの意志と、持って生まれたのではなく自ら見いだして磨きを掛けた阿呆によって、ひとりの、阿呆になるのである。阿呆に友情は必要ない、あるのはどちらがより阿呆であるかという、命と、阿呆を掛けた闘い、のみなのである。


 ではここからは実例を挙げて説明してみよう阿呆である。
 近年ぐいぐいと阿呆の腕を上げているのが「内館牧子」である。「内館牧子」と「朝青龍」のどちらがより阿呆なのかという議論も、世界中の阿呆阿呆関係者の間で盛んにされていることで、それが原因で何件もの阿呆のサイトの「炎上」も起きているのは、これを読んでいるあなたもよく知ることであるが、異論反論喧々囂々あるのを承知で筆者の考えを述べさせてもらえば、やはり、「内館牧子」に軍配が上がる。それは性別の問題でも、年齢の問題でも、ましてや人種の問題ですら(はみ出して言うなら横綱審議委員には「杉浦日向子」がなるべきだったのだ、そうしていれば今頃は…)ない。
 「内館牧子」の阿呆は、「内館牧子」だけの一個人の特別な固有の希有な天才による奇跡的な阿呆、なのである。だがその阿呆の天才も、元横綱審議委員長の「渡邉恒雄」通称「ナベツネ」には遠く及ばない。
 「ナベツネ」の阿呆は昭和の闇が産んだ(「ナベツネ」自身は大正生まれ)禍々しいまでの阿呆、なのである。そうでなければあの「たかが選手が。」発言など、できようはずもない。あの発言は…いや、あの発言こそが、大正生まれの滅び逝く旧世代の阿呆の権化「ナベツネ」が、九十年代の半ばから急激に精力を伸ばしはじめた次世代のなまっちょろい阿呆へと送る、辞世の「激」なのである。かつて就職活動で唯一落ちた中央公論社を買収しそこから「渡邉恒雄回顧録」などというトンデモ本を出版できるツラの皮の厚さとクソしついこい読売新聞の勧誘員のような執念深さがなければ到底発することもできない渾身の阿呆を込めた一世一代の辞世の「激っ!」なのである。

 「ナベツネ」の後継問題については、細心の注意を払って行わなければいけない、なぜなら、あまりにその阿呆の「品格」にばかり拘りすぎると、阿呆ではなくなってしまうからである。阿呆は誰の内にも潜む「資質」ではあるが、そこにアクセスをサクセスできる者は、限られた、選ばれた者だけなのだから…。

 阿呆とは本来、自ら名乗るものではない、それは自然と湧き起こる、赤が「赤」と呼ばれるように、青が「青」と呼ばれるように、気が付けば周りのみんながそう呼んでいる、阿呆とは、「称号」なのである。
 人類の歴史を振り返ってみて、阿呆になり損ねた者はあまりにも多い。前世紀から今世紀だけでも「ヒトラー」「スターリン」「ムッソリーニ」「毛沢東」「ビンラディン」「フセイン」「麻原彰晃こと松本智津夫」「ブッシュ(第四十三代)」「ヒロヒト」などなどなどな(ながーーーぁくなるので簡単に思い付いた限りにしました、これを読んでいるあなたも、自分だけの「阿呆になり損ねた者リスト」を作ってみるのも、阿呆で、面白いかもしれません)ど…彼らはありあまるほどの阿呆の才を持ちながら、ついぞ、「阿呆」という称号を授けられることはなかった。
 

 阿呆とは、笑いでもある。
 阿呆とは笑い笑われ笑う笑えるでほんま顎が外れるまで笑かしたろかちゅうか笑えるでほんまあんさんもこんなもん最後まで読んでしもて阿呆やなぁ。












           了。



散文(批評随筆小説等) 批評祭参加作品■「 そやから何で阿呆やねんやろとツッコミ待ちで考えてみる。 」 Copyright PULL. 2008-01-26 07:52:56
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第3回批評祭参加作品