山道で蹲る、由美子
N哉

「挙手なさい。指名しますから」

 と、言っておきながら先生は今回も、窓の外を憂鬱そうに眺めている由美子を選んだ。
 由美子が渋々立ち上がり音読を始めると、皆が黙って聞く姿勢。まあしかし、一部のヤンキーと腐女子は相変わらず自分に夢中だったし、女子のほとんどは嫉妬で苛ついていたわけだが。少なくともおれや男子生徒はとても行儀良かった。
 一目貴方にも見せてあげたい、由美子の可愛さ、美しさ。その美しい由美子が音読するのだから、これは素晴らしい物語の、始まり始まり――。


『山道』

 私は、蹲っていた。
 突然始まった激しい腹の痛みに、私は人気のない山道で蹲っていた。
 先程の茶屋で食べた大福にあたったか、はたまた昨夜の魚介に刺されたか。とにかくこの尋常でない痛みから逃れようと、砂利に身体を擦りつけてみたが、擦りきれた腹から血が滲み、地面を赤く染めるばかり。誰か居ないものかと辺りを見渡してみるも、やはり人の気配はない。
 腹痛は、引いたかと思えば更に高い痛みへ、引いたかと思えば更に高い痛みへ、徐々に激しさが増し、全身からは大量の汗が吹き出し、意識も朦朧としてきた。これはもう、ただの食あたりとは思えない。

「あらぁ、どうしたぁ?」

 一体どれ程の間それを待ったことだろう、たまたま通りすがった老婆が私に声をかけてきたとき、仏様は確かにいらっしゃるのだと心底思った。

「あ…、あ…」

 それに答えようとした私だったが、激しい痛みに悶えるばかりで声にならない。老婆はしかし状況を察したらしく、途端に慌て始め

「一寸で戻るから待っておれ!」

 と、急ぎ足で元来た山道を戻っていった。私はもう助かるものだと信じ切って、すっかり安心してしまった。
 それが単なる思いこみだったと知るのは、夕刻も近づき空が真っ赤に燃え始めた頃だった。

「これは大変だ、孕んでいるようだ」

 老婆が連れてきた医者は私を見るなりそう言った。なんと恐ろしいことか、あの時かこの時か、私の頭の中は一瞬にして過去の男で一杯になった。しかし思い当たる節が多すぎてわからない、そこで最も相応しかったと思う相手を当てはめることにした。
 それは一年前の秋、高松の外れの山寺で出会った男、やけに毛深いなりをした優しい目のその男は、私を一晩中抱き続けた。彼と別れた後、もう二度と思い出すまいと考えたが、しばらくの間は他の男に興味すら持てなかった。
 あれこれ考えているうちに、医者は私の身体を乱暴に動かし、その際私ははっきりと耳にした。

「子供を産んだら死ぬだろう」

 医者の冷淡なその声を!そしてかすれがすれに聞こえてきたのは、その場には今まで居なかった、老婆でも医者でもない新たな、それはとても小さな生き物の鳴き声。しかし私はそんなことはどうでも良かった。やっと、あの激しい痛みから解放されたのだから――。


 おれは由美子が死んじゃったみたいに思えてウルッときた。他の男子も同じだ。先生が小さく「ありがとう」と言ったときには、皆が立ち上がり鳴り止まない拍手を由美子に送りそうな勢いだった。

「さて、作中に登場する「私」が、実は狐だった件について」

 切り替えの早めな先生に由美子は残念そうな顔をしたが、その点おれは未だ切り替えられずにいる訳だから、合格点と言えるだろう。


自由詩 山道で蹲る、由美子 Copyright N哉 2008-01-25 15:27:41
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