当体蓮華?
ケンディ

妙法蓮華経の《蓮華》とはどう捉えられるべきか。蓮華は因果が一瞬にして凝縮されている様を表現している。すなわち我々の生を表現している。
道生の『法華経の疏巻上』、法雲の『法華経義記巻一』では、譬喩蓮華が説かれている。つまり妙法蓮華経の「蓮華」は妙因妙果の譬喩である、と。
それに対し天台の『法華玄義』では、当体蓮華(妙法蓮華)の説明のための譬喩蓮華、華草蓮華をたてる。そして当体蓮華について『法華玄義』には、「法華の法門は清浄にして因果微妙なれば、此の法門を名づけて蓮華と為す。即ち是れ法華三昧の当体の名なり、譬喩に非ざるなり」とある。譬喩蓮華に限定した妙法蓮華の解釈方法(道生、法雲)からは出てこない発想が、当体蓮華にはある。当体蓮華――蓮華という特殊な存在そのものが表す因果倶時の、《今‐ここ》での現出は、因果倶時の理法(妙法)の譬喩ではなく、法華三昧そのものだ――天台はこのように言う。多様多種の華草がこの世には存在するが、特定の華草(蓮華)が妙法の表現に用いられていること。確かに蓮華は因果倶時を表現するのに適しているかもしれない。しかしもしかしたらそれ以外にも適している華草があるかもしれない中、あえて蓮華と名づけられた当体蓮華。無数の選択肢(があったかもしれない)の中からあえて選ばれたというこの特殊な存在。これは、我々娑婆世界に生きる人間の生き様、その現象形態と合致する。要するに、無数に別様の生を受けえたかもしれない(不確定的な)私でありながら、アメリカでもアフリカでもなく日本に、しかも東京でも大阪に、江戸時代でも明治時代でもなく、昭和から平成にかけて出現した。また、他にも無数の考えられうる生の形態パターンの中から、ほかならぬこの生の形態を生きている。この私の特殊性・必然性。(最近、身体を離れた思考の不可能性、むしろ身体性を重視する議論が散見される。)当体蓮華なりと捉える発想。妙法蓮華経であると捉える発想。
それに対し、妙法蓮華経の「蓮華」を譬喩とのみとらえる発想はどうなのか。この発想からは、“蓮華”という因果倶時の現れは、他の華草でもよいが、まあとりあえず分かり易い喩えとして、蓮華と表現しておこう。そういうことになる。したがって蓮華は、特殊な個別具体例の1つに過ぎなくなる。そこには、「他の現れ方もあった」という不確定=偶然な想念が侵入してくる。生の偶然性は、キリスト教の生命観にもあるようだ。ともあれ道生や法雲のとらえ方では、妙法蓮華の本体がどこかにあって、それが個別具体的に、あくまでも一つの例として現れたのが、一「蓮華」である私となってしまう。スピノザの汎神論では、まず神という実体があって、その特殊な現れが、諸々の精神や現象などだととらえられる。スピノザと道生・法雲の発想は同じ構造ではないか。天台と道生・法雲の相違(のもっとも大きなもののひとつ)は、蓮華の特殊性つまり私の特殊性を必然ととらえるか、偶然ととらえるかの違いであろう。しかも天台は、上記のように譬喩蓮華を当体蓮華の説明のために活用し、蔑ろにしてはない。故に単なる硬直した決定論に陥ることもない。かつその反対にゼンマイ仕掛けの人形のような人間観、神の被造物や被投性(サルトル)といった偶然的存在論に陥ることもない。人間が最高に個性を発揮する当体蓮華たりうるという人間イメージである。言い換えれば、もっとも豊かな同一性(自身の換え難さ、比類のなさ)と、もっとも豊かな差異(個性、他者の尊重)を、もっとも適切に調和させうるのが当体蓮華の法理といえるだろう。理解がいまだ浅いが、こんなふうに考えたことがあった。


散文(批評随筆小説等) 当体蓮華? Copyright ケンディ 2008-01-06 12:15:57
notebook Home