沈黙の内側、ダイヤグラムは途切れたものばかりで体裁を整えている(5)
ホロウ・シカエルボク
このわずかな間に、俺は何度こういう沈黙を繰り返し繰り返し味わっただろう?俺たち、では無い―やつはきっと、本来言葉を喋るように出来てはいないのだ。やつを分類するとしたらそれはきっと、「押し黙る」という項目の中だ。これまでのやり取りの中で、俺はなんとなくそんな風に感じていた。やつは沈黙する。その内側にどういった理由があるのか…そいつは知ることは出来ない。なぜならそれは表出することが無いからだ―だから腐る。だから腐敗する。腐敗し、禍々しい臭いを放つ。それはそいつの内側の暗闇の具現化だ。話せないもの、表出されないものは別の形で出てこようとする。内側に生まれてくるものは本能的に表出しようとするものなのかもしれない。幽閉を余儀なくされたいくつかの感情は(感情のすべてが表出されるべきものとは限らないが、ここではそれが本当は表出を望んでいるとでも言うべき種類の感情に限定して話を進める)、腐り、臭いを放つ―まるで人知れず殺された人間のようだと俺は思う―本来あるべき運命からの強引なコースチェンジを組まれ、奪われた挙句埋葬すら叶わない。そんな、人知れず殺された人間のようだと。そうなのだ、誰も殺さなかったからといって、誰も殺さなかったと結論付けるのは本当は間違いなのだ―誰もが殺している。殻の無い人間を。誰もが殺している。滅法酷いやりかたで―肉体を持っていなかったというだけの話だ。ただ、肉体を持っていなかったというだけの。幽閉されて殺されるそういう感情たちは、いったいどれほどの間心の暗闇の中で目を見開いているのだろう?いつかは表出することが出来る、いつかは適当な言葉を振り分けられて肉体から零れ落ちることが出来ると―生れた以上、それは隠されるべきものではないのだ。そこに生まれた以上…たとえばそれが、なんら言葉を当てはめることなど出来ないような厄介な代物だったとしても。
そこまで考えたとき、俺は(本当に)気がついた。腐臭が言葉を持っていないのは、それが俺の中で腐ったものだからなのだと。こいつがこんな陰気な目つきを持つ前に、俺が何らかのフレーズをこいつに当てはめてやらなければならなかったのだと。
腐臭は相変わらずうずくまっていたが、もうその口は動いてはいなかった。顔を上げ、初めのときのように―いや、そのときよりもずっと様々なものが蠢いている視線をこっちに向けていた。やつに対する俺の認識の変化の過程を、やつがどれほど汲み取っているのかは判らなかった。俺は次第に可笑しくなってきた。やつは無力だ。やつはあまりにも無力すぎる―無力ゆえに腐り、臭いを放つのだ。俺の好きだらけの唇から思わず漏れることぐらい、たやすく出来そうなものじゃないか?俺は笑った。というよりも、笑い飛ばした。やつの視線の温度が数度冷えた。それが俺の笑いに拍車を掛けた。俺は身をよじり、大声を上げて腐臭のことを笑った。
自分がそんな風に笑うことの出来る人間だということを、今日まで俺は知ることが無かった。知るということは、笑うということはつまり、この上なく把握するということなのだ―この俺が誰かを虐げているだなんて。腐臭。俺によって殺された過去の俺の一部。俺によって腐敗した過去の俺。俺を責めるものも俺なら、俺を笑うものも俺なのだ。腐臭は黙って俺を見つめていたが、不意に立ち上がり俺の首に手を掛けた。酷い臭いがした。脳天まで突き上げる臭い。呼吸器官を洗浄したくなるような臭い。やつの目はギラギラと燃えていた。蘇生だ、と俺は思った。「腐臭」が「蘇生」しているのだ。こいつ、笑われて蘇生しやがった!喉元に食い込んだ手はだんだんと力を増してきた。「いいぞ」俺は喘ぎながら思った「もっと絞めろ」もっと絞めろ。窒息するぐらいきつく絞めてみろ、弱虫。俺は残された気管を利用して笑い続けた。
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沈黙の内側、ダイヤグラムは途切れたものばかりで体裁を整えている