「復想園」  
生田 稔




復想園          批評人
  (1)
 
悪魔の子は或る夜、スラム街の一室に泊まった。父の悪魔がなした永年の悪の業を見て廻った後、有名なそのスラム街のそれも最もひどい宿を撰んで、悪魔の子は泊まった。
 悪魔の子は、父の悪魔よりも賢くはあった。
なにしろ父が祖父から悪の業を受け継いだ頃の古めかしい無謀なあきらめに似た、がむしゃらな狂気と強引さをこの悪魔の子は厭ったのだから、嵐や火事や飢饉や旱魃やそして戦争、その他あらゆる無謀を彼は厭った。悪魔の子として出来損なっていた。新しい型の悪魔のようなものが悪魔の子の考えであった。兄や弟達が父の権能を受けて、世に出てふんぞり返っているのをいつも鼻で笑った。
 いや実は悪魔という名をこの世から消すことも考えたのである。悪魔達も実はたいして幸福ではない。悪魔にも階級があって、父の悪魔以外には皆その上があって自由ではないのである。悪魔達は協力し合わないと倒されるので、お互いに憎み妬み合いながら助け合っているような具合なので、到底幸福などというものは無い。
 彼も生まれてしばらくは、兄弟達と同様に悪魔の仕事に携わったが、その仕事のばかばかしさ、発展のなさに気付いて、いよいよ父が領土をくれる頃になると、悪魔の社会を脱け出した。
 父の悪魔は烈火の如く怒って、地の底から大きな声を出して言った。
「お前が何処へ行こうと、おれの力はお前に及んで、お前のその心に反して、お前はお前の兄弟たちの誰よりもひどい運命に倒れるだろう。然しお前が本当におれに詫びる時がくればその時は許してやる。」
 然し悪魔の子は父の力を嘲笑していた。彼はこのように考えていた。悪魔の力も、父の敵である神の力には及ぶまい。私は悪魔の子だから、神の保護を受けることは出来まい、しかし神は昔から我々悪魔に神の愛と力と公正に気付けと叫んでおられるから、神の指示通りのことをすれば私は父の束縛から脱せるのだ。
 そして悪魔の子は一人深山に入って神の言葉を勉強した。父の束縛は常に彼に及んで、彼は狂い悶え幾度もつまづきそうになりながらそれそれに抗した。
 然し父はいつも手下を送って彼に警告した。
つまらぬことはよせ、今のうちなら父は必ずお前を許すだろう、戻れ!戻れ!という叫びを幾度も聞いた。
 悪魔の子はその声によって戻るどころではなく、ますます神の知識を身につけて、父をきりきり舞いさせることを考えた。
 ようやくその日はやってきた。彼はある黎明、輝かしい歓喜が胸中に湧き上るのを覚えた。悪魔の知識が自分の心から遠ざけられて、多量の神の知識が心中で躍動するのを感じた。悪魔の父が地の底からの支配を完全に止めたのを知った。
 彼は躍り上がって歓んだ。多くの光が広い
野に満ち満ちていた。彼は一人歓びつつ深山
から、その青草と花々の満つ野原に降り立っ
た。深く空気と光を吸った。今まで彼を見る
と避けて通った美しい鳥達が彼に微笑を向け
ひそひそ話し合いながら左右を過ぎていった。
彼は手足に自由を感じた。そして、とある大
きな岩陰に来て、大声に悪魔の父を笑った。
笑いは岩を通して、岩を駆けめぐった。する
ると目前のその大きな岩には振動が起こって
四条の割れ目が刻まれた。右から順に、四条
の亀裂が等しい間隔を置いて並んだ。最初の割れ目が湧き上がるように突然に口を開いて
叫んだ。
 「お前はこの如くなるのだ!
  お前はこの如くだ!
  これがお前!
  お前はこれ!」
と一斉に喚き叫んだ。
 然しそれらの叫びも彼の歓喜を消すものではなかった。が少しく不快を覚えて岩を離れ、
悪魔から脱した自分の姿を映してみるために、よく澄んだ野の中にある湖水の側に立った。
 水面に映じた自身の姿は以前とはまるで違った理知の姿に変じているのを知った。彼はその姿に満足して、いよいよ自分が世に出て悪魔の父と兄弟たちをきりきり舞させることを始めようと思った。
 彼のいた無人の野、さまたげの無い瞑想の境は誰が作ってくれたのか、それは彼にも判らなかった。ある夜訪れて五年という年月を過ごしたこの深山をとり巻く広い野を出る時、
彼はふと少し悲しさを感じた。細い綿糸のようなものが背後から、行くな行くなと引っぱるような気がした。然し彼の冷たく済みきった理知の支配する心はすぐその糸を切ってしまった。
 いよいよもうこの野には永遠に帰れないだろうと思われる野と外界とを分かつ橋の袂にきた時、彼は橋の上で大小の猿が数匹時折彼のほうを見て笑いながら列をくんで踊り興じているのを見た。彼がその橋を渡りかけると、
猿共は一散にぱっと散りじりになって、巷の方へ赤い尻を見せて逃げ込んでしまった。
 「ばかばかしい猿共だ。踊ることことしか知らない。」と考えてこのことを忘れようと思った。
 巷は明るかった。色とりどりのネオンが輝き女と男が騒ぎ会っていた。ふと今来た野の方を振り返ると、彼がさっき渡った橋は無残にも砕かれて、彼の住まいした深山は火を吹いて激しく燃え上がっていた。
 「失想園」と彼は心の中で呟いた。
 然し想いは心に残って消えることはないのだ。これから私は父の悪魔と戦って、以前より素晴らしい自分の復想園を造り上げてみせるのだと深く心にきめた。
 そして、はやり立つ心を抑えつつ、巷の奥へと進んだ。  (つづく)








散文(批評随筆小説等) 「復想園」   Copyright 生田 稔 2007-12-14 14:42:23
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