あの頃
石畑由紀子

信号を無視してあらゆる交差点を渡った 緩慢な自殺未遂もことごとく失敗に終わり
裁縫バサミで刺した腕の傷も今はもうほとんど目立たない


つながれた大型犬が吠える それにつられて隣の家の
つながれた小型犬も吠える なんだか誰かに似ている


記録的な猛暑だった 37度の中を彼のアトリエで
クーラーもなしでベルベットシーツの上に裸身で横たわりポーズをとっていた
そのとき描きあげたばかりだった静物画には
私が食べてしまったはずの六花亭のショートケーキが今もそこに在る

肖像画となって胸を張る亡き人物のように額に収まって


コップ半分の水、なんて例え話はもう聞き飽きた
もう半分まだ半分なんて考えている間に私はそれを飲み干してしまう
ポジティブ・シンキングも渇きには勝てない
まして男なら据え膳には勝てない あの人は私を捨てたのだ


地平と西の空を燃やす巨大オレンジ
一緒に見たい、と即座に脳裏に浮かんだ顔は
恋人ではなかった


    *


地下鉄では向かいのオヤジが10分も私を視姦してきたし
道を歩けば運転席から財布をチラつかせ声をかけてくる
確かに今は心臓だって買える世の中だわね、ところであんたらのプライドは赤札らしい
非売品の私にお手を触れないで下さい


コスモの6Fでは相変わらず身動きがとれなくて参ってしまう
ユニクロを着ることで威厳が保たれ安心している幾千万の人・人・人
今日もつまらない顔をして信号が青になるのを待っている
揃いも揃ってみんなきちんと待っている その群集から抜け出しかつて私は

                             (→ はじめにもどる)




       
(2000.04)


自由詩 あの頃 Copyright 石畑由紀子 2004-06-15 23:05:48
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