自作小説冒頭、つまり失敗作のかけら
佐々宝砂
ゴキブリ夢ネタです。小説にしようと思ったけどできなかったゴキブリの夢。
なんでこんなものを載せるかというと今ネタに不自由しているからです(笑
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畳はすっかり腐っていた。だから、踏み込んだぼくの足は、軟らかい畳にぐにゅりと穴を開けた。狼狽して足を引き抜こうとしたがうまくゆかず、ぼくの身体はそのままずぶずぶと畳にめり込んでいった。
なま温かい、べとべとした、イヤな臭いのする畳――というよりは畳の筋目がある茶色い汚泥状のもの――に首まで浸かって、ぼくは、どうしてこんなことになってしまったのか思い出そうとした。けれどまるで思い出せない。頭の中で無数の蝿がぶんぶん飛び回ってるみたいな気分だ。「助けてくれ!」ぼくはわめいてみた。誰も答えなかった。
ぼくはもがいた。必死にもがいて、この悪臭漂う汚い沼から逃れようと試みた。体重を持ち上げるだけの腕力はあったが、腐れ切った忌々しい畳は、ぼくの体重に耐えるだけの根性を持ち合わせていなかった。もがけばもがくほどぼくの身体は沈んでゆく。ぼくはやけになって足をばたつかせた。すると、足の先が何もない空間を蹴った。そうか、だったら下に落っこちてしまえ――ぼくは、畳の下にあるものについてはなるべく考えないことにして、無我夢中で足をばたつかせた。
ロープが千切れるような音が聞こえ、ぼくは落下した。腐って溶けた畳が、ぼくの頬を一瞬舐めた。ぼくはねとねとする汚れを手の甲でぬぐいながら、あたりを見回した。
あたりは暗かった。ぼくが開けた大穴から光が射してはいるが、この広い洞窟を隅々まで照らすことはできなかった。ぼくは恐る恐る両手を伸ばした。右手には何も触れなかったが、左手は湿っぽい土壁に触れた。そっと土壁を撫で回すと、何か冷たくて固い、滑っこい感触のものがあった。こいつは何だ? ぼくは指先でそいつをつついた。間髪を入れず、そいつはぼくの指先に噛みついた。ぼくは気が違ったみたいに手を振った。そいつは簡単に指を離れた。
これはいつもの夢だ。
ぼくはようやく思い出していた。この洞窟の暗闇には、あの、不潔な、おぞましい、ゴキブリに似た三本角の生き物が無数に潜んでいて、そいつらはみんな、ぼくに噛みつこうとスキを狙っているのだ。
ぼくは洞窟のあちこちでゴキブリの這いずり回るカサカサという音を聞き、恐怖に凍りついた。逃げようにも逃げる場所はなく、やがて最初の一匹がおずおずとぼくの足に這い上がり、続いて数え切れない虫どもがぼくの肌の上を蠢きまわった。そして、やつらは、示し合わせたかのように、いちどきにぼくに噛みついた。
「これは夢だ!」
ぼくは叫んだ。恐怖にかられて。
「そうよ、ただの夢」
ぶっきらぼうだが落ち着いた、ハスキーな声――柚子だ。ぼくはベッドの上で上半身を起こした。薄暗い部屋の中で、柚子の白い顔が幽霊のように浮かび上がった。
「柚子……」
ぼくは、汗にじっとり湿った手を差し出した。柚子は小鳥のように首を傾げ、ぼくの手に、ひんやりする頬を押しあてた。
「ただの夢」
柚子は繰り返した。
「うん、そうだね、ただの夢だね」
ぼくは云い、いつもそうしているように、柚子の、ゆるいウェーブのかかった柔らかな髪をまさぐった。だが、いつもと違って何だか感触が悪い。イヤな予感がして手を離した。柚子の長い髪から、奇妙なものがぽろぽろとこぼれた。
「何だ、これは……」
それは、小指の先ほどの、小さな、しかし無数の、真珠色をした卵だった。卵だと判ったのは、薄い殻を透かして、黒い三本角の生き物が蠢いているのが見てとれたからだ。
「単なる夢」
柚子は云い、うっすらと微笑んだ。そしてぼくは見た、柚子の目から、くちびるから、耳から、鼻孔から、しまいには白い頬の肉を裂いて、あとからあとから真珠色の卵が生まれてはこぼれおちるのを。ぼくにはもう、悲鳴をあげる気力さえ残っていなかった。
やがてぼくと柚子は、ベッドルームの中で真珠色の卵に埋もれてしまった。