白熱
佐々宝砂

1.

海底にねセ氏120度の温泉を噴き出す海底火山があってね そこにはまっしろな蟹が住んでるんだよ なに食ってるかって硫化水素を利用して増えるバクテリアとかなんとかそんなものを食ってるんだけど いやなに食ってるかなんてそんなことどうでもいいんだよ 問題は蟹の色だよ まっしろなんだよ まっしろで熱いんだよ ものすごく熱いのに光は射さないから いやたとえ光が射しても そうだよたとえ光が射しても まっしろな蟹は光をすこしも吸い込まないから だからまっしろいんだから まっしろで まっしろで熱くて 俺はね あいつらをテレビで見ると安心するんだよ ものすごくものすごく安心するんだよ 核でも化学兵器でもダイオキシンでも なんでもいいけどとにかくそんなしろもので 俺たちみんなみんな死んで 地上にカビさえ生えなくなって 海上に赤潮さえ浮かばなくなって そんなときでも あのまっしろな蟹はきっと生きているんだ 俺たちと全く無関係な場所で 俺たちには熱すぎる場所で 俺たちにとっては死に直結する有毒な場所で まっしろな蟹が這っている 餌となる生物を追いかけ 異なる性を追いかけ 卵を抱き 老いて死ぬ まっしろな蟹 俺はあんたよりあのまっしろな蟹が好きだ


2.

亡くなった母方の祖母は いつも自分のことを「俺」と呼んだ 縁側で煙管を吸いながら祖母はいつも何かに怒っていた 俺は祖母が好きではなかったが 「俺」という物言いだけはいやに気に入っていたものだ いや祖母は粗野な女ではなかった 俺が繊細な女であるのと同程度には繊細な女だったよ 全くあんたの想像力ときたら最低サイアクに俗だね もちろんあんたはそれを自覚しているのだろうけど しかしそんなことどうでもいいんだ 俺は洋子のことを話したいんだ とにかく俺は洋子が好きだった 洋子は髪が長くて小柄で痩せていて眼鏡をかけていてそばかすがあって ひどく恐がりで そのくせコックリさんに凝っていたりした 洋子は同じ学校の野球部のピッチャーに惚れていた そんなふうに一番目立つやつに惚れる凡庸な女子中学生 運動ができるわけでも勉強ができるわけでもないとりたてていうところのない女子中学生 もちろん全然美人ではなかった それが洋子で そして俺はどうしようもなく洋子が好きだった 俺は放課後になると洋子とふたりで学校の屋上にあがり 宇宙船を呼ぼうとした 洋子は呼べると信じていた 俺は信じていなかった 洋子は 田舎の中学の野球部のピッチャーで比較的勉強ができて少しばかり格好がいいだけの ただそれだけの男を宇宙に連れてゆくつもりだった 俺はただ悲しかった これほど悲しいのだから宇宙船がくるはずなどないと思っていた


3.

ホワイトホールというものが宇宙のどこかに実在する とは科学雑誌にさえも載っていなかったような気がする ホワイトホールは仮想の存在で しかし 俺はホワイトホールを知っていたんだよ ホワイトホールは常に俺の中にあって 俺はほんとうにそれを持て余していた あんたには信じられるかい 想像できるかい 自分自身では何を吸収しようとも思わないんだ 俺はからっぽなんだ からっぽだけど何ひとつ吸いこみゃしないし 何ひとつ学ばないんだ なのに俺の中からずるずるといろんなものがでてくる それはホワイトホールのせいなんだ 俺のなかにある白い穴 想像できるかい できないだろう できるとは思っちゃいない その白い穴は熱いんだ 熱くて底なしで 白くて 俺は白い紙にいくつも直線を引いた 直線が重なり合うことによってできる曲線のようなものを凝視した それは ちょっとだけ 俺のなかのホワイトホールに似ていた 俺は紙のうえの仮想のホワイトホールをカッターで切り刻んだ 切り刻まれたホワイトホールは切り刻まれてなおホワイトホールで 切り刻まれたホワイトホールは痙攣し白熱し 白熱するホワイトホールからすべてが吐き出されてきた すべてだ タバコも 蟹も 洋子も あんたも 俺も 政治家どもも 教科書も ホワイトホールも みんながみんなあのホワイトホールから現れたんだ


4.

不在の騎士は誰よりも賢く誰よりも強く誰よりもハンサムだったが それは不在の騎士が不在だったからだ とカルヴィーノは書いただろうか 書いてなかったような気もするが この理解はおおむね間違ってはいないだろう 洋子と全く話をしなくなって しばらくあとのこと 俺は不在の騎士に恋をした 不在の騎士は不在だからやさしかった 不在の騎士は不在だからこわくなかった 不在の騎士は不在だからペニスを持っていなかった 深夜 家族が寝静まると 俺は不在の騎士にラプレタァを書いてすごした 愛していますと書いた記憶はないけれど どうしてあなたは何も言ってくれないのですか くらいは書いたような気がする いや本当は書いたんだ 俺は 熱烈で 甘ったるくて どうしようもない そういうたぐいのラブレタァを不在の騎士に書いたんだ 不在の騎士は不在だから俺に返事をくれなかった 俺は泣きながらねむった 泣きながら眠って夢をみた 夢のなか 不在の騎士が不在の腕で俺を抱き上げた 俺は不在の騎士にキスしたかった 愛していると告げたかった 俺は不在の騎士の鉄製の面覆いに指をかけた 面覆いを持ち上げようとすると 不在の騎士がいいのかと訊ねた 俺はいいんだと答えた 俺の指は確かに面覆いをあげた 夢の空気が白くヒートした しかし俺はそのあとのことを知らない わからない わからないんだ でも俺がこんなになったのは それからだ それからなんだよ


5.

海に顔をつけることができるようになったのは いくつのことだったろう 海辺の街で俺は生まれたが あの海はヘドロで黒かったし 遊泳禁止だった 俺の育った片田舎の海は それでも少しはきれいだったが 俺はあの海でも泳いだ記憶がない だが俺は小さなころから海で泳いだらしかった 俺は汐に髪をひたし 砂まみれになり 裸で海岸を転げまわった そうしなければならない季節があった 俺は熱っぽかった 断じて微熱ではなく 俺は熱っぽい身体を冷ますために海で泳いだ 海は白かった 白くてそして恐ろしいことには俺よりも熱かった 俺は白熱する海でのたうちまわる 白熱する白熱のなかで白熱する白熱 周期的に白熱の季節が俺を襲った 俺はどうしたらいいか知っていた けれどどうしたいのか知らなかった ただ俺は白熱しなくてはならず 白熱するしかなく 白熱は目的であり白熱は動機であり白熱は手段であり なお白熱は白熱でしかなく ああ俺はもう何もいらない 洋子も あんたも ホワイトホールから噴き出されるすべても なにもかも どうでもいい 俺を許してくれ 俺を生んでくれたかあさん 自分のことを「俺」と呼んだばあさん 俺は何も生まなかった俺は何も生めなかった 白熱の海に俺は今日も顔をひたす 白熱の海底には白熱の蟹が生きている 白熱の海面には白熱する不在の騎士が浮上し白熱する不在の腕で俺を抱きとめる それが明日か今日か一億年後か俺は知らない 時間さえどうでもいい そうだここには時間さえないんだ


自由詩 白熱 Copyright 佐々宝砂 2003-08-31 02:15:56
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白熱。