詩集に纏わるエピソード (3)
深水遊脚

 詩作やその他の創作活動について、著者本人のエピソードがそのまま語られているかのような詩がいくつかあった。舞台裏を見ているような気分になるので、「詩」を求めるときはそういうものを見ないふりをしてやり過ごすこともある。でも「エピソード」を求める読み方もまたあっていいと思う。それを知ることで同じ著者のほかの詩がより深く味わえることもある。



(引用 斉藤圭子『蒼茫』より)

展覧会を見に行っているうちにわたしにはひ
とつの絵画の見方ができたがそれはまず始め
に題名は読まずに作品だけを見て自分の心の
中で作家が何を描きたくてどんな題名を付け
ているか判断してから題名を見るという見方
だった。そういう行為をしているとしだいに
題名が分かるという割合が多くなり自分でも
驚くほどだった。
しかし別の考えも浮かんできた。言葉を超越
したところにある絵画がなぜ言葉である題名
を持たなければならないかということである。
もしかしたらわたしの敗北はその潔癖さから
始まったのかもしれない。けれどもなぜ現在
わたしは言葉と共に生きているのか。生きら
れているのか。

(引用終わり)


斉藤圭子氏の『蒼茫』には、詩作のまえに取り組んでいた絵画について、自伝的なエピソードを語る詩がいくつかある。結局は続かなかったものの、取り組んでいたときの、懸命に何かを吸収しようとするひたむきさ、貪欲さは詩の至るところに表れている。引用部分の、まず自分が目にしたものをたよりにして題名を思い起こす行為は、目の前の世界を言葉により再構築すること、すなわち詩作に限りなく近い行為といえる。絵画と詩作とで出来上がるものは違うけれども、創作の源泉となるものはどこか共通しているのではないか。同じ詩集に入っている別の詩も引用したい。


(引用 同詩集より)

夕日に抱かれた熟柿は
もうこれ以上熟すことはできないと
落ちそうになるがとどまる
熟柿に抱かれた夕日は
一段と広がって
山の合間に向かって行く

(引用終わり)


この詩などは、絵画に関する自伝的な詩とあわせて読むと興味深い。熟柿について緻密な観察があってこそそのイメージは夕日のそれと交わり、溶け合い、より奥行きの深い世界が描かれる。その緻密な観察を可能にしたものこそ、絵画に取り組んでいた時期の積み重ねであるように思う。

 絵画ばかりとは限らない。一見詩とは関係のなさそうな仕事でも、経験を積んで熟練してその奥の深さを知るようになると、それにより身につけた感覚が詩に影響してくることがあるだろう。ふだん詩を書かない人がふと書きたくなることだってあるかもしれない。文字の羅列にしか見えなかった詩がすっとわかるようになり、惹きつけられるようになることもあるだろう。経験を積み、貪欲に何かを吸収することは決して無駄にならない。どんな分野のいかなる経験であろうと、詩に結びつく可能性は常にある。そしてその結びつき、交わりにより、詩も、日々の生活も、より奥行きの深いものとなるだろう。



(詩集に纏わるエピソード(1)で列挙した詩集をまだ消化していませんが、このシリーズはこれで終了することにします。詩学社の詩集についての散文はまだ書き続けるつもりです。今度は別の観点から同様に詩の引用を交えて展開してゆきます。詩学社の詩集の注文の期限は11月20日のようです。それ以前に読者の目に触れなければ、販売促進のレビューとしては役立たずです。でも多分私は11月20日までにすべてを書ききることはできません。それでも続ける意味はあるのか。そう問われて返す言葉はないかもしれません。「消えるもの 残るもの」で書いた、「残るものは詩の言葉と人とのかかわりである」ということを証明するという目的が辛うじて私を突き動かしています。経営の失敗により詩学社という会社は消えても、彼らが残そうとしたもの、苦しい経営の中でもなお伝えようとしたこと、それをひとつでも拾ってゆきたいです。個人的な面識等のない私にとっては、読み手として出版物のなかからそれを拾う以外に手段はありませんが。)


散文(批評随筆小説等) 詩集に纏わるエピソード (3) Copyright 深水遊脚 2007-11-13 22:35:44
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