個人の「経験」から世界の別の顔へ
岡部淳太郎

 最初に断っておきますが、僕は議論があまり好きな方ではありません。自分が提出した意見に対して横槍が入ったからといって、それに答えて弁明または自らの意見を解説するようなことは極力したくありません。それと、詩であっても散文であってもひとつの作品として書きたいので、ある特定の場所でしか通用しないようなものはなるべく書きたくないとも思っています。ある意見があってそれに反論があって、そこでさらなる反論をするというのは、その議論のやり取りを見守っていなければわからないものであるし、それがたとえばネット上の『現代詩フォーラム』という限定された場で行なわれたものであるなら、なおさらその場を知らない人にとっては何のことやらわけがわからないということにもなってきます。僕は『現代詩フォーラム』に発表したもののほとんどは自分のサイト『21世紀のモノクローム』(http://www16.ocn.ne.jp/~juntaro/index.html)にも発表していますが、僕のサイトは知っているけれども『現代詩フォーラム』は知らないという人にとっては、そうした議論のやり取りで生まれた散文をいきなり個人サイトの方で読んでもわけがわからず困惑するだけだと思い、そうしたものは個人サイトには載せないようにしています。個人サイトに載せられないようなものは書いても仕方がない。それが反論の文章を書きたがらない理由のひとつでもあります。
 しかしながら、今回僕がしおみず湯さんの散文「『経験』主義を批判」(http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=139590)に寄せたコメント(http://po-m.com/forum/pointview.php?did=139590&from=osusume.php%3Fosuhid%3D1388)に対して冷やしこの夜さんから「傲慢」だと指摘され、それは違うよと言いたい気持ちになったので、例外的に自分の意見を補足する文章を書いておきます。なお、この文章に対してさらなる反論などがあっても、僕はそれに対する反論または弁明や説明の文章を書きません。この文章一回だけです。
 まず僕がしおみず湯さんの「『経験』主義を批判」に寄せたコメントは次のようなものでした。


経験というものは人を思い上がらせる力を持っていると思います。
「自分はこんなに多くの世界を見てきた。そんな自分が間違えるはずがない」
「自分はこんなにひどい目に遭ってきた。その気持ちがおまえにわかるか」
というように、自分が経てきた経験を世界の中心に据えてしまう力を持っている。
経験も人の思いも、それぞれ千差万別であるにもかかわらず、
そうして中心に据えられた世界の見方を動かすことが困難になってくる。
だからちょっと胡散臭いというか、経験万能主義の人たちは個人的に苦手です。

この散文に関してはもっとつっこんで書くことも出来たと思いますが、
自分が思っているのと基本的には同じ趣旨なのでポイントします。

僕もこういうことを他の問題と絡めて散文を書いていますが、
ちょっと長くなってしまったのでネットには不向きだなと判断して未発表のまま保留しています。


 このコメントに対し冷やしこの夜さんはこのように言っています(僕のコメントに言及した部分のみ引用)。


しかし岡部淳太郎さん、おたくの意見はあまりにも傲慢ですよ。
というより経験至上主義者と同じ視野の狭いことを言っている。
どうしてもう少し大目に見てやれないの?
その体験が本人にとって重大ならそれはそれで中心にそえてもいいじゃないの。
おたくらの狭さにはいつも驚いてばかりいますよ。


 僕は自分のコメントを「傲慢」であるとされたのにちょっと驚いてしまいました。自分ではちっともそんなつもりがないからこそ驚いたのですが(自分の傲慢さに気づいていないことこそ傲慢だなどと言われそうではありますが)、同時に自分の言ったことがちゃんと伝わっていないとも思いました。あそこで僕が言っていたことは実にシンプルなものです。まず「経験というものは人を思い上がらせる力を持っている」という意見表明であり、次にその力は「自分が経てきた経験を世界の中心に据えてしまう力」であると規定しています。さらに「経験も人の思いも、それぞれ千差万別であ」り、経験によってつくられた人格は「中心に据えられた世界の見方を動かすことが困難になってくる」としています。そのようにして経験から物を言う人を「個人的に苦手」だと言っている。ただそれだけのコメントです。どうしてこれだけのコメントが「傲慢」だと決めつけられなければならないのか、非常に不思議です。単に「苦手」であると言っているだけで、「自分が経てきた経験を世界の中心に据えてしまう」経験主義者たちを断罪しているわけでもないしそういう輩は発言するなと言っているわけでもありません。「苦手」であると正直に告白しただけで「傲慢」だと言われるなど不思議でなりません。そもそも「苦手」だと言っただけでは不快感の表明にすらなっていません。それにやや近いところまでは行っていますが、自分の中で精神的距離を感じるので出来れば避けたいという程度のものだと思います。それとも、そのようなことを正直に告白することですら「傲慢」なのでしょうか? そうだと言われてしまえば、ああ、そうですか、と答える以外にありません。自分とは違う感覚で生きている人なんだと思ってやり過ごすだけの話です(僕のコメントに冷やしこの夜さんが反応してしまったのは、「だからちょっと胡散臭い」という表現があったからかもしれません。たしかにあれは不用意な表現ではありました)。
 僕があのコメントにこめた意味は経験主義者たちを否定するというよりは、そういう人たちにもっと違った方向から世界を見る方法もあるんじゃないかという提案をしているというのに近いです。世界は様々な顔を持っていて、個人が経験したものだけが経験ではないし、個人が感じる世界だけが世界ではありません。これはもう自明のことと言ってもいいかと思いますが、時に人はそれを忘れることがある。世界が多様で自分の小さな頭脳では思いもよらないような側面を見せることがあるということを失念してしまう。それは彼が自らの拠って立つところの「経験」を信じすぎるがために起こることなのだと思います。だから、そのように自分の眼でしか世界を見られなくなっている人に対して、こっちの道もあるよ、こっち側から眺めてみれば違って見えるよと、そういうことを言いたいだけなのです。冷やしこの夜さんは「経験至上主義者と同じ視野の狭いことを言っている。/どうしてもう少し大目に見てやれないの?」と言っていますが、経験によって視野が狭くなってともすれば経験を経ていない人たちを否定したがる人たちに「もう少し大目に見て」やってもいいんじゃないのかと言っているわけです。そんなことを言うのは大きなお世話かもしれないということは重々承知していますが、少なくともそのように「複眼」で世界を見ることの出来る人が増えれば、この世の中ももう少し暮らしやすい場所になるのではないかと、そんなことをぼんやりと思っています。
 僕のコメントへの反論コメントの中で冷やしこの夜さんは「その体験が本人にとって重大ならそれはそれで中心にそえてもいいじゃないの」とも言っていますが、まあそりゃあその通りだろうと僕も思います。もともと僕はそうした立場を否定したつもりはないし、先ほど書いたようにそうした立場に対して別の道を示したいというだけなのです。この『現代詩フォーラム』の中でも知っている人は知っていますが、僕も他に換えようのないぬきさしならない経験を持っています。それをいくつもの詩や散文にしてきました。だけど、ある時から心のどこかでその「特異な経験」にあまりにも頼りすぎじゃないかと思うようになりました。そこから先ほど書いたような自分の経験からのみ世界を見るのではなく世界を別の側面から見ていくことも大事なんじゃないかという考えが生まれました。だから、その考えには経験に頼りすぎた自らへの戒めという意味もあります。
 以上が言いたいことのすべてです。ここまで散々書いてきたように、僕の方に否定の気持ちなど微塵もありません。それは断言出来ます。僕は自らの個人的な「経験」から世界の別の顔にたどりつくという困難な道を歩いてみたいし、それを他の人たちにもお薦めするという、ただそれだけのことです。



(二〇〇七年十一月)


散文(批評随筆小説等) 個人の「経験」から世界の別の顔へ Copyright 岡部淳太郎 2007-11-13 13:15:31
notebook Home 戻る  過去 未来