詩集に纏わるエピソード (2)
深水遊脚
これから書く詩集についてそのエピソードを書くとき、エピソードの本来の語義から外れてこの言葉を使うことになるかもしれない。そこでここだけに通用するエピソードの意味を私なりに考えてみたい。もちろん、本来の語義から発展させるかたちで。国語辞典と英和辞典の両方を参照したところ、エピソードの語義はおよそ次の通りである。
1.人や物事に関するちょっとした話
2.本筋には直接関係のない話
3.劇や小説の1編
カタカナでエピソードと書くときは1か2の意味で使われているように思う。ちょっとした、とか本筋には関係のない、といったところが要であるようにみえる。これを詩に当てはめるとどうだろうか。ある出来事が詩の素材になっているとき、その出来事がエピソードであり、本筋にあたるものは詩である、と考えてみようと思う。さらりと詩という言葉を使ったけれど、素材をどのように見せて何を伝えるのかということをここでは詩と考えたい。飾るか飾らないか、生のままか熟成させるか、いろいろな「仕方」があるだろう。詩においてあくまで本筋はその「仕方」なのである。一方で、詩の素材になった出来事が透けて見えたとき、その出来事をエピソードとここでは言っておくことにしたい。
(引用 北岡都留『空の重ね着』あとがきより)
私たちは何処にいても何をしても、絶えず多くの人にかかわって生きています。
人とかかわりながら一層ふかく人をみつめ、人にまたみつめられながら行き着く所まで歩いているのかも知れません。私の詩もそこから始まったように思います。
(引用終わり)
北岡都留氏の詩集『空の重ね着』のなかには同じタイトルの詩があり、空の碧さに幾重にも重なる人のかかわりを喩えている。重ね合わさったひとつひとつの人たちのエピソードは、決して明るいものばかりではない。それでもそれらが重なった空の碧さは、温かさ、愛しさを帯びるものとして描かれる。線香の町に住み、線香のにおいが染み付いて離れない年頃の女の子、民宿のパートをしながら老いた母親の面倒をみる初老の女性、明石海峡大橋の過酷な建設現場で働く男性、その明石海峡大橋の開通により職を失った人など、様々なエピソードが詩に織り込まれている。不思議と暖かさを感じるのは、ありのままに観察し、受け止めているからではないかと感じる。エピソードは聞かれるのを待っている。自分のことで頭がいっぱいの詩人には聞く余裕すらない。そのエピソードを、私情を交えずにまずはちゃんと受け止めること、聞き上手になること、そこから生まれてくる詩がたしかにあるのだ。群集のなかのひとりとして詩を読み、詩を書くというのは、こういうことではないだろうか。ちゃんと受け止めることは優しさ、思いやりでもある。それがあるから、いくつもの人のエピソードが重なり合うときに温かさ、愛しさを帯びるのかもしれない。
(引用 伊藤芳博『家族 そのひかり』より)
物を食べ 排泄する
生きるとはそういうことだ
そういう大切なことに
父の介護に生きている母の横にいて
やっと気づく
(中略)
ウンコと言ってウンチと言ってごまかしても
小便大便は
最後まで人の証だ
今日はなんとか大便が出たよ
喜ぶ母の横で
僕は父を支えている
一日が過ぎる
幸せ
(引用終わり)
伊藤芳博氏の詩集『家族 そのひかり』には家族とのエピソードが頻繁に登場する。家族ほどの濃厚な繋がりともなると、小便や大便の話もごまかせないし隠せない。はっきりとそれを取り上げた詩が2つあって、ひとつはトイレでふんばりながら「日々は糞とともに流れていく」と独白し、パンツの隙間から落ちた子どものウンチなどコミカルなエピソードを語るような詩だった。もうひとつが引用した詩である。主に母親が行っている父親の介護であるが、これを言葉にする著者も真剣に向き合い、取り組んでいるのだ。これらの詩があることで、絆をみつめたかったのかもしれないという著者の姿勢が真実として伝わる。私にはそう思えた。「生きるとはそういうことだ」という詩行の何と力強く、美しいことか。他者に向き合うということのほんとうの意味がそこにあるようだ。
(続く)