アデン 一
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 アデン


 三日月の夜にケンカしてかけ出したら道にまよってしまった。
 どこをどうはしってきたのか、気づいたら公園がすごく大きくて僕はようやく立ち止まったんだけど、滑り台の下でしばらくぼうっとしてからこんな公園は一度も来た事がないって分かって、こまっちゃったんだ。それでまたなんとなく歩きだしたんだけど、いくら帰ろうと思っても見なれた景色になってくれないのは、きっとどんどん離れていってたんだろうね。
 月が空のはじっこのほうでとおい山にひっついてかくれるとだんだん星がふえてきた。おなかが空いてきていいにおいを嗅ぎわけようって思った。それなのにだんだん街のにおいがしなくなってきて、これじゃあダメだ、バッタやカエルなんか捕まえるのは面倒くさいから戻ろうと思った。そしたら車や汗やクーラーのにおいに草やおしっこのが入りまじった中で、ちょっと気になるにおいがしたんだ。よく嗅いだらつんと甘くねばって、いままで一度も嗅いだことない不思議なにおいだ。
 空気もしめっていたし、そんなに遠くじゃないみたいだったしすんすんと嗅ぎながら頑張ったら、すぐにぼろっちいアパートの一階のはじっこのドアが少しだけ開いていた。
 ドアを入るとすぐに台所で、もう朝のひかりがじわっとしはじめていた。台所は食べ物のにおいでいっぱいだった。パンやミルクに砂糖やしょうゆ。油のにおいでつばが口いっぱいになった。それでのどがごくって鳴った。
 疲れてもいたし、流しに飛び乗って冷蔵庫にジャンプしてそこのパンを食べて眠ってもよかったんだけど、さっきのにおいがやっぱり気になった。
 ここにつくちょっと前から、これはもう食べもののにおいじゃないと思っていたけれど、少し開いたガラス戸の奥からプンプンにおってくるんだ。つんとしてスーッと甘くって、おまけにベロがきゅっとなる。おなかにペタッとすいつくみたいでもあるな。
 いったいなんのにおいだろう。気になってしかたなかったから、ぼくはご飯をあと回しにしてとなりの部屋にむかって、カーテンが閉まっていたから目を大きくしてベッドの横をとおって、やっぱりまた少し開いたふすまからにおいがもれてくる、もうひとつ奥の部屋に歩いていった。
 その部屋に入ったしゅんかん、これはひき返えそうって思った。ほんとにすごいにおいだったんだから!
 キバはぎゅーってちぢんでベロもひりひり、目はチカチカしてぜんぶの毛が針金みたいにとんがった。ツメの先っぽまでそのにおいでいっぱいになったみたいで、逃げ出そうとしたんだけどあたまもくらくらしたから、つい、その場にすわり込んじゃったんだ。からだを動かしたら、よけいくらくらしそうだし、もうおなかが減ってることなんてわからなくなった。しばらくじっとしておこう、そう思った。けれど不思議なのはそうしてほんのちょっと頭をさげて休んでただけなのに、気持ち悪かったのがどんどん治っていっちゃったんだ。だんだん気にならなくなってきて、それどころかちょっといいにおいになっていって、やっぱり食べられそうじゃなかったけれど、なんだかすっきりしたにおいだったから、僕はだらしなかったあごを上げて、耳としっぽをまっすぐ後ろにしたところで気づいた。
 いすに座った男がいる。

 男は僕にせなかをむけて、みぎ手にもったほそい棒の先っぽで赤い線をひいている。棒の先っぽは三角にくんだおおきな柱にかけられたうすい四角の、この部屋よりうんとおおきな景色にのっかっていて僕はびっくりした。
 四角には川がながれていた。山がかすんでいた。空は晴れてるところもあったし、雨をふらせてまっ黒な雲もあった。燃えてるビルのうえを、カラスや、見たこともないきれいな鳥が飛んでいた。僕もいた。犬がいたしねずみだっていた。ラクダとぶたとコウモリとぜんぶいっしょにたくさんの花が咲いたり枯れたりしている中を走ってく、暗いおかの森のとおくに海がひかってた。それを男はひだり手に持ったたくさんのほかの棒ととり変えとり変えかえしながら、さきっぽの青や黄いろや灰いろでつくったりこわしたりしている。すると赤い線はいつのまにかまん丸いリンゴになってはだかの男のあしもとに落ちて、ずるそうな猿が見ている。はだかの男は青いりょう手で顔をおおって泣いてるように歩いてるけれど、指のあいだからみえる細い目とつり上がった口は笑っていた。
 棒の男はビルのうえに虹をかけおわるとおおきなあくびをして、背のびしたらたくさんの色でギラギラした板に棒をおいてたばこを吸いだした。そうやってしばらく四角をながめたあとたばこをバケツにほうり込んでじゅっとさせたあと立ち上がり、四角をもってこっちにむかって歩いてこようとした、そこでようやく僕に気づいてちょっと驚いたみたいだ。四角をもとの場所にもどし、神さまの使いにしては、そう言うといすに座りなおして僕を見た。
「うす汚れてる」
 こんな失敬なことばを聞かされるなんて思ってなかったから、僕はきっとにらんでやったけれど男は知らんふりしてギラギラの板を布でごしごし拭きだした。そんならすねでもひっかいてやれと思ったら、ごしごしやってる布からまたあのにおいがしたんだ。この部屋のにおいになれた鼻にもいちだんとはっきりして、その正体は男がギラギラの板を拭いたよごれた布をあたらしいのに変える度にビンから布へ注がれるコハク色した液体だった。



散文(批評随筆小説等) アデン 一 Copyright soft_machine 2007-11-08 22:25:49
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