ルーアンの鐘
服部 剛
彼は文学館の一隅に再現された、今は亡き作
家の書斎に立っていた。木目の机上には白紙
の原稿用紙が一枚置かれ、スタンドの灯りに
照らされていた。
まだ何も書かれていないその白紙に、彼は旅
行中で家にいない家族や、休養中でしばらく
顔を合わせていない職場の同僚達の顔を想い
浮かべた。
体調を崩し休養する前は毎日当たり前のよう
に顔を合わせ、何とも思っていなかった人々
が、その書斎に立っていると何故か彼の胸の
内に、言葉にならぬほどかけがえのない人々
のように感じられた。それらの人々は、机上
のランプに照らされた白紙の原稿用紙の中に
顔を並べ、いつまでも彼に微笑みかけていた。
机の前の壁には、一枚の絵が掛けられていた。
額縁の暗闇にうつむくその顔は不思議な光を
帯び、遥かに遠い過去から何かを彼に語りか
けていた。その声に音は無く、誰も座ってい
ない椅子には、在りし日の作家が机に向かう
背中が、うっすらと透けて見えた。机上の隅
に置かれた写真立ての中で、作家が誰よりも
愛した母が、ヴァイオリンを弾いていた。
背後の壁に開いた窓に青空は広がり、何処か
らか鐘の音が聞こえてきた。それは若き日に
作家が青春の日々を過ごした、ルーアンの丘
で聞いた鐘の音に似ていた。