暖かい黒水晶
蒸発王

夫は

生まれてこのかた
一度も眠ったことのない人でした

『暖かい黒水晶』



苦痛や肉体疲労はありません
ただ
眠れないのです
疲れていても
安らかであっても
あの人に眠りは訪れませんでした

はじめて一緒に寝た夜
私はすすり泣きで目を覚ますと
夫が泣いていたのです
まるで


まるで

温かな死体を抱くようだ と


涙をこぼす夫は
眠りと死の見分けさえ
良くつかないようでした


そんな夫の下まぶたには
どす黒いくまが積っていて
その黒さは
殴られたアザのようで
うっすらと青みがかかっていました
きっと
あの人の悲しみが
溶けだして青く映っていたのでしょう

指先で触れると
掬いとれるほどの
深くねばついた睡眠が
体内で吸収されないで
黒く結晶化したもの


眠れぬ黒水晶


それが夫のくまでした


夫の黒水晶は
スプーンで削れるほどに
柔らかく
眠れないという人が
その黒水晶の一欠けらで
一週間は眠り続ける代物で
わざわざ
其れを求めてやって来る人もいました

ただ
本人に効きませんでしたが





ある朝起きると
夫は
庭に出て
初氷で凍てついた池を見ていました

朝日も眠そうな光

反射する光を
押し上げる
まつげ下の
黒水晶が

ふるり と震え



夫に訪れる
そのものの正体を 
私は悟ったのです


私は隣りに座って
夫のくちゃくちゃの手を
ぎゅっと握り


金色に光る一秒一秒を見つめました



眠りに落ちていく
夫の瞳に
水面が放つ秋の光が
擦れて揺らぎ


その熱が

鉛光りする
まぶたの黒水晶を
くま を
ゆるゆると溶かしていきます

黒い涙が
夫の頬を伝い
凍りの湖にそそがれて行きます
黒い眠りの粒子が
土の香りと混じると
ぐっと強くなった

眠りの匂いが

とりまいて

夫は



最初で最後の眠りに落ちる

刹那



私を見て
微笑いました





流れ出た黒水晶は
墨汁のように私たちの体を染め上げて


香り立つ秋と涙の匂いに

私は
ただ溜息をついて


この黒水晶が
ゆったりと温度を失うまで

抱きしめたままでいたのです




『暖かい黒水晶』


自由詩 暖かい黒水晶 Copyright 蒸発王 2007-10-20 19:52:13
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