10月
んなこたーない
・友よ しかし友はなく
来週の日曜日に友達の結婚式がある。
ぼくは友人代表のスピーチを務めることになっているのだが、いまだ何の準備もしていない。
家庭の幸福を疑うこと、太宰や荷風にも劣らないぼくに、一体どんな祝辞を述べろというのだろう?
しかし、依頼を引き受けた以上、そして、当日、会場に乱入した見知らぬ男が
花嫁をさらっていくことが期待できない以上、ぼくはやらなければならない。
まずは自己紹介をかねて、新郎新婦(ぼくの場合は新郎)との関係を説明するのが定石のようだ……
*
「友よ しかし友はなく」という北園克衛の詩の一行を、初めて読んだのはいつのことだったろうか。
そのときぼくは、これはモダニスム然とした諧謔であると、クスクス笑わせてもらったものだ。
いま読んでも、この一行からは名状しがたいユーモアが感じられる。
「友よ しかし友はなく」という北園克衛の詩の一行が、アリストテレスを下敷きにしたものである(多分)と
気づいたのは、いつのことだったろうか。
もっとも、アリストテレスのいう「友」と、ぼくらが一般に使う意味での「友」には、相当の径庭がある。
しかし、それはともかくも、友達とは一体なんだろう? ぼくらは言葉を曖昧に使いすぎる傾向がある。
どうして、Y(新郎)とぼくは友達なのだろう?
ぼくらの関係を定義するのには、それが一番妥当な呼び方なのだろうか?
広い意味で、Communityとは、同じ過去を持つ、あるいは同じ未来を志向する集団のことである。
ぼくとYは、人生の8割近い年月をともに過ごしてきたわけで、たがいのことは色々と隅々まで知っている。
しかし、本当にぼくはYのことを知っていると自認していいのだろうか?
友達に限らず、家族や恋人、その他親しい人たちのことを改めて考えてみると、
ぼくは誰に対しても常にある錯覚を抱いてきたのではないかと不安になってしまう。
同じように、自分自身、周りのひとたちに何か誤解を与えつづけてきたのではないのか、とも。
そして、その誤解を知りながら、かえって甘えるようなところがあったのではなかったか。
そういったズレは日々の平穏さのなかではうまく見えないが、なにかAffairが起きたときなど、
望まずとも気づかされてしまうことがある。
ぼくは、いままでにも、近しいひとの言動で、
見てはいけないものを見てしまったような戸惑いと後ろめたさを覚えたことが少なからずある。
同じ過去や同じ未来といっても、完全に同一なわけではない。
ぼくとYにしたって、共通の思い出一つとってみても、
そこにはかなりの温度差や認識のズレがあるに違いない。
熱狂的な一体感も、冷めてみれば、不誠実なごまかしばかりが目についてしまうものだ。
ただでさえ、ぼくらは常に引力と斥力とのあいだで引き裂かれている。
楽に飛び越えられる障壁もあれば、どうしても踏み出せない一歩がある。
どうしても譲り渡せない一点があれば、どう望んでも譲り渡すことの不可能な一点がある。
このもどかしさを解消するすべはあるのだろうか……
*
ぼくらを取巻くすべて一切は、みな、人生がぼくらに贈与してくれたものである。
それらにむかっていかに答礼するか、ぼくらに課されたAssignmentはただそれだけである。
そして、それを果たすこと、それはぼくら一人ひとりの責任である。
Y君、Sさん、ならびに親族の皆さん、この度はご結婚おめでとうございます……
・リーフレイン「いじめ事件の余波 ネットのリンチ」
森鴎外「渋江抽斎」は、「大阪毎日新聞」「東京日日新聞」に連載されていた。
ぼくには、次のような疑問が思い浮かんでくる。
当時の新聞の読者層は今に比べて教養が豊かだったのだろうか?
いまの新聞連載小説などと比べてみれば、「渋江抽斎」は明らかに難しい。
当時はみんな、あの文章を普通に読んでいたのだろうか?
その答えはぼくには分からない。ひとまず、鴎外が語学の達人であることに間違いはない。
明治、大正あたりまでの教育を受けた知識人たちのことを思ってみるとき、
ぼくはかれらの教養の高さを強く意識してしまう。
現在の作家の多くは白文はおろか漢文さえ読めないだろう。
現在はネットを駆使すれば、かなりの情報量をあつめることができる。
しかし、その割に密度の濃い文章を目にすることは少ないように思う。
情報の価値は有用性や多様性、正確性などに求められる。
そして、それらを満たさないものはただのノイズでしかない。
ノイズが真の情報をかすませて見えにくくしまうことでは、ネットも決して例に漏れない。
「ネットの情報の氾濫は、向こう三軒両隣でのプライバシーの欠如を日本中に拡大せしめてしまったんだ」
という認識に、ぼくは大いに疑問を持つ。
ぼくはいまマンション暮らしなので、向かいには何もないが、両隣の住人のことなど何も知らない。
プライバシー権を侵害する、あるいは侵害される恐れは、日々の生活を振り返ってみても、まず考えられない。
情報へのアクセスが利便になるほど、教養ある人間が減ってきたように見えるのは、
あるいは、通信手段の発展とリンクするようにコミュニケーションから
疎外される人間が増えてきたように見えるのは、たんなる思い過ごしだろうか?
*
キリストは「罪なき者だけが石を投げよ」と言って、罪深き人間たちを諌めた。
ぼくは、石を投げていた者たちが、みな、正義心からそうしていたとは思わない。
ただ足元に石が落ちていただけかもしれない。