独白2
風見鶏

現代詩フォーラムに参加するにあたりいくつかの作品を見て回ったのだが、なるほど現代詩に対して自分のように穿った考え方を持つ人間はむしろ少数派で、ほとんどの人々がそれぞれに独自の楽しみ方を模索し獲得しているであろう事だけは把握する事が出来た。残念ながら自分が求めていたような現代詩の偶像とも言えるイメージに出会う事は出来なかったが、そんななかでもいくつかの自分の心を揺さぶりゆる思想にも出会う事が出来たのは自分のなかでも貴重な体験であったと思う。

しかしながら、つい先日まで限られた条件の中でいかに多くの事に一貫性を持って語りかけるかという技法に執心していた自分にとって、このフォーラムにおいて「独白」という手法が感覚的に一番馴染んだ事に対しては正直驚きを隠せない。もともと自分は比喩や暗喩という技法を好んでいて、ある事象を還元する言葉に対して異なる事象や流動性を求める事にこそ文学的価値を求めていた。にも関わらず、そういった今まで積み上げてきた手法が全く通じない舞台へと自らの表現の可能性を見いだしてしまったという事は自分にとって未だ開拓されずにいる未知なる自己がいたという事を如実に語りかけてくれている。

そういえば私にとって現代詩というカテゴリは云わば全く未知なる存在で、しばらく「散文」という手法と「独白」という手法の違いがわからずに頭を唸らせていた。辞書で調べてみたところによると、散文という手法はつまり韻律・字数・句法などに制限のない通常の文章を表し、独白という手法は劇や小説などで登場人物が心の中で思っている事を相手無しで一人で語るための文章的な手法であるらしいが、いずれにしても違いがよくわからない。もちろん異なるものであるという事は理解できるのだが、おそらく散文という舞台に自分のステージを置き換えたところで私は同じような事をやるだろうし、なんとなくこれから散文でやろうとしている事をこの独白という舞台でやろうとしても恐らく出来ないという事は無いだろうと思う。

しょせん私のこの独白は、言ってみれば流行りのブログに書かれているような日記と何も変わりなく、自分を文学的なインテリに見せるためにわざと小難しい言葉を選んだり、文章の構成に多少の文学的なテイストを盛り込んでいるに過ぎず、やろうとしている事には大した変わりが無い。云わば普段ブログで書いているような文章技法を一人称小説のような書き方に置き換え、自分を小説の中の登場人物に見立てる事によって私の脳裏を掠める様々な心情を文学的に記しているだけなのだ。もっともこれを毎日続ければ、それはそれで散文的文章手法の良い練習台にはなるだろうが、普段はそれなりに生活というものがあるし、日々の日課にするには無理がある。第一、このような稚拙というにも劣る個人の心境をだらだらと記していた所で、とてもじゃないが文章書きとしての自分に良い作用をもたらすとも考えられない。ならば、ある種の自慰にも等しいこの独白を私に書かせているのもは、少し気取った言い方をすればそれは文章書きとしての本能なのかもしれない。


未詩・独白 独白2 Copyright 風見鶏 2007-10-06 19:29:15
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