Religionについて
ケンディ
「宗教」という言葉は、根本の教えという意味だ。宗教とは何かを考えるために、ここでは西洋の宗教つまりreligionという言葉を見ていきたい。Religionの原義は神への敬意、義務、きずなだ。ラテン語の文法や意味を多分に受け継いでいるイタリア語で、Reは国主、神を意味する。だがReを「再び」の意味で取ることもできる。Ligareは結合させること。ゆえにReプラスligareで、誓って自己を神に結ぶこと。あるいは再結合を意味している可能性もある。
ともあれ神と私の関係が宗教(Religion)の基本モデルであるようだ。キリスト教圏の宗教の基本イメージは、第一に自分と神という二者の閉じた関係(1)として、第二に自己の神への結合(ないし再結合)(2)として解釈できる。そうすると第三に、宗教は自己が神(神の存在、キリスト教の正当性)を体験するためのメディアという機能(3)としてみることもできる。これらについて考えてみる。
Reは神や国主という絶対的支配者の意味だけでなく「再び」という意味でもあると推測するのは理由無きことではない。再びということは、まず結合・きずな(ligature)の解体があったということを予想させる。一度解かれたからこそ、もう一度(=再び)きずなが結ばれるのだから。天国を追放されたという原罪の神話、磔刑に遭ったキリストを傍観した罪悪感。この神への違背が、Re-ligionの成立に含まれていると考える。自己の神に対する関係(ligature)は負債の関係である。以上のような語義の分析を度外視しても、衆生が神に対して莫大な債務を負っているという観念が、ユダヤ‐キリスト教には絡み付いていることは、たとえばニーチェに指摘されてきたことだ。言葉は人の心が結晶化したものである。これを忘れてはならない。人の心が結晶化して言葉となり、そして今度は結晶化した言葉のほうが人びとの心に影響を与える。そしてまた人が言葉に影響を与え、言葉はある程度一定の形で存続する。以上要するに、人と言葉は相互循環的に再生産しあっている。したがって以下では宗教を単にキリスト教や教会の動向という意味ではなく、Re-ligionという、より一般的に人々に共有されていたであろう観念として見ていく。ゆえにRe-ligionは、宗教そのものを意味しているわけではなく、2千年ほど連綿と続いた社会的営為(Reに自己を関係させていくという社会的営為)という意味である。
カントの道徳論は政治の民主化のみならず、西洋宗教の民主化の象徴と捉えることもできる。カントの哲学は批判哲学と呼ばれるが、彼は遠慮なしに当時常識だったことを多く批判した。大きな権威をもっていた宗教も例外ではなかった。だが、Re-ligionの視座からみるとそうではない。
宗教(Religion)という言葉には強い義務のイメージが表れているが、これはカントの言葉にも反映されている。カントは主体の自律という考えを、絶対君主制の終り、フランス革命胎動期に提起しながらも、定言命法という厳しく自己を律する一種絶対性を帯びた義務を考案した。その義務とは、普遍的な道徳原則(君の格率が君の意思によって普遍化されてもよいように行為せよ)への固いベルト=ligatureだ。この道徳原則が法の合法性(legality)の基礎となる。Reが神ならば、カントはReに民主主義原理、抽象的道徳を置き換えただけで、Re-ligionという関係性自体は、それ以前とは変わらない。カントによってreは神から道徳原則に置き換えられた。ゆえにカントはRe-ligionにおけるReを変革した思想家といえるが、Re-ligionの関係は温存させた。
カントよりもラディカルにRe-ligionを告発したのはニーチェとマルクスだった。ニーチェはいわば、Re-ligionのうち、-ligionの部分の本質を、「負い目」、「良心のやましさ」であることを示した。ニーチェは『道徳の系譜』で、道徳全体に染み渡る、-ligionつまり負債を負うことで人びとが思考構造および文化の次元から奴隷化されていることをセンセーショナルに暴き立てた。マルクスは神と信仰者の契約が経済的負債関係であることを見抜き、経済的制度(資本主義)が人びと(労働者)を奴隷化し、彼らがその負債関係を再生産している当の担い手になってしまっていることに眼を向かせようとした。
カントがいわばReligionのRe-の部分を変革させ、近代化に沿った新しいRe-ligionのモデル(理性)を形成したのに対し、時代を遡ってみると、Re-ligionの-ligionを微調整しようとする風潮があった。その代表者はルターだった。ルター以前の中世キリスト教は、平信徒に対して命令(praecepta)のみを守るように説いてきた。ルターはこの風潮を転換した。ルターは神と信徒の隔絶を強調しながらも、日々の規則的で清廉な生活が救済の必要条件であることを説いた。これは別の視点から見れば、神との負債関係(-ligion)の緩和だ。債権者の譲歩といったところか。当時免罪符による救済の保証があったが、構造的にはそれと同じだろう。ルターは負債の返済可能性をほのめかしたにすぎない。彼は信徒のソルベンシーを調整した戦略家だった。信徒は神に対して莫大な借金を抱え、返済能力なし(insolvent)であったのに、莫大な借金が返済可能(solvent)かもしれないならば、人びとは一縷の可能性にかけて日々努力せざるをえない。神はルターというコンサルタントに委託して、信徒達の債務履行の出力が最大限となるよう合理的にソルベンシー・マネージメントを行なったわけだ。そうしてみると免罪符も同様に、神との負債関係の制度的解決の試みであった。もちろん、宗教の原義からして、金を教会に支払うことで救済の保証が与えられるなどということはばかげている。
神と自己の関係。神は目に見えず手に触れられない。神と私という関係は、神と私の対話を前提とする。すると神と私の間には何らかの差異性がなければならない。神との合一により恍惚に至ることを目ざすクエイカー派のような宗派もあったようだが、見たところ主流ではなさそうである。また中世では、神の預言者を自称してラディカルに布教したり、教義を主体的に解釈したりする者は、異端視されたり処刑されたりした。神との合一を体験したと告白するのも禁じられていたと聞く。異端と見なされて処刑されたり追放された例は中世から近世にかけて頻繁に見られる。独創的に教義を街頭で説いたエックハルトは危険視された。ジョルダーノ・ブルーノは処刑され、スピノザは無神論者と非難された。ルネッサンスの終わりごろに出現したサヴォナローラは、火あぶりの刑にあった。神の預言をもって戦ったジャンヌ・ダルクは最期火あぶりにされた。こういったことには政治的思惑が多分に入っているが、主体的なキリスト教の実践(そこに人間の人間らしさがあると思われるのだが)は、暴力によって何度も抑圧され、人々は恐怖を植え付けられる。そうすると体制側への順応という政治性が加味された思想が受け入れられ普及することになる。だが大きなスパンで見れば、絶対的に君臨する暴君に祭り上げられた神、Reの地位を引きずり下ろそうとする試みの積み重ねとして西欧宗教史を見ることもできるだろう。神と一気に合一しようとする信徒は迫害された。したがって、神と自己との差異は、教義上のみならず、現実においても厚くて固い凶暴な壁だった。その差異を架橋してくれる役を果たす者たちが聖職者だった。これを無視して勝手に神と合一しようとする者が命を落とした。「踏みつけられた虫は身を縮める。じつに賢明な遣り方である。こうすることで、虫はあらたに踏みつけられる確率を減らしているのである。これを道徳の言葉でいえば謙遜」(ニーチェ、『偶像の黄昏』、白水社、西尾幹二訳、p.20)。中世の民衆は、文字どおり虫けらのように殺されていた。騎士の気まぐれで農民は殺された。その時代を経た人々の共同意識に、ニーチェのいう「謙遜」が植え込まれざるをえなかったのは当然のことだ。だがその間も、漸進的にキリスト教とその社会は民主的になっていったようである。Re-ligionの-ligionは先述のとおりルターがある程度変えた。Re-はカントが命を危険に曝すことなく論じられるようになるまで、西欧の歴史はひっそりと準備が進められていたわけだ。まずアウグスティヌス(4‐5世紀)は神を友とする説を出した。もっとも彼はかなり高位にあったが、神との合一や無差異までは説いていなかったようだ。その後、13世紀あたりにウィリアム・オッカムが当時としては画期的と思われる見解を出したため、破門の危機に遭った。彼の見解はコミュニオンの概念上の転回といえる。コミュニオンは、神から信徒への聖体拝領を原義とするといわれるが、その中間で僧侶達が権威を振るった。たしかにおいしい商売であったろう。坊主は一度やると止められない。オッカムは新しいコミュニオンのあり方を提起した。もともとコミュニオンは神から信徒への一方通行だった。これを逆に、信徒から神への応答を加え、神との対話の可能性を提起したのだといえる。これがコミュニケーションのもとの意味である。もっともアウグスティヌス(4‐5世紀)が神を友とし、観照(theoria)の中で神と対話することについて論じたが、アウグスティヌスは僧侶という特権的身分の者であった。それに対してオッカムは神と自己=信徒の対話を論じたのであって、特権的僧侶と神との対話ではない。オッカムの場合はRe-ligionにおける-ligionの劇的変革の可能性を提起してしまったため波紋を呼んだ。救済財=債権は僧侶達に独占されていた。-ligionを変えようとすることは、債権・債務関係を変えてしまうことだから、債権者である僧侶達にとっては困ることだ。僧侶達にとってオッカムはおっかない。だがこうしたオッカムの考えとパラレルな動きは当時のキリスト教会の中にあった。それは大分裂(大シズマ)である。何人かの教皇が一時期同時に鼎立されてしまった。これはルターの宗教改革の大きな遠因になったはずである。大分裂の混乱が収拾されるために会議=話し合い=コミュニケーションが行なわれざるをえなかった。それがコンスタンツ公会議だ。会議によるコミュニケーションがひとりの教皇を選出するという、理性的実践がここに行われたことは、-ligionの漸進的変革に、ひいてはRe-の劇的変革(フランス革命)につながっていく。
以上の話では、教義の内容に触れることなく、外面的なキリスト教の変遷の重要ポイントがいくつか取上げられて、Re-ligionの観点から眺められたにすぎない。