ブライアン

 国鳥である雉は、一般的に「ケンケン」と鳴くといわれる。平地のような開けた場所に巣を構える。夜は木の上で眠る。雄の体長は80センチ。メスは50センチ。茶褐色の羽に白い斑点がある。しかし記憶の雉は、深い緑色の中に輝く黒色の斑点があった。どこで、記憶を間違えたのだろう。今でも深い緑色の雉は、記憶の世界で枯れたすすきの上を歩いている。
雉の肉はおいしく、同郷の友人の父は、鉄砲で撃ち取った雉を食べさせてくれた。雉の語源は「ききじ」であり、今もそう呼んでいるところがあるそうだ。一般的に、「ききじ」の「き」を省略し、現在は「きじ」とよばれている。
 
 雉の鳴き声から「気違い」という言葉が生まれたのだ、と聞いたのは高校生位のときだった。その説が正しいかどうかを調べたのだが、何の資料も出ることはなかった。おそらく嘘だったのだろう。
鋭く高い声で叫ぶ人の声を「雉と違うか」と、言ったことから、その言葉は生まれたのだ、と、そのときいわれたのか、その後考えたのか定かではないが、ずっとそう信じていた。
鋭く高く響く雉の声は、「ケンケン」などと形容されているが、それほどかわいらしく感じたことはなかった。自室の部屋で音楽を聞いていると、唐突に響いてくる雉の声。あらゆる隙間、空間を振動させるために鳴かれた、その声は、空に放たれた後も、空間をさまよっている。その声は、人が哀願する言葉を忘れてもなお、哀願しようとする行為の響きに似てさえいる。

 人は、欠如したものを取り戻そうとし、声を上げたのではなかったろうか。声は欲求となり、欲求に意味が生じ、言葉として記号化された。記号化した言葉は、記憶として何らかのものに記される。それはシナプスか。または洞窟の絵画かはわからない。それら、記された記号は記憶され、膨大なコンテンツとしてバックアップされ、忘れさせることを許さない。再び記号を感情に還元するとき、それらの膨大な記憶から、ピックアップし、人は行動を起こす。それらの記憶装置が時間とともに限界を生じ始める。すでに、記憶されない感情が世界に散らばり始めたのだ。そして、印刷技術が登場する。印刷技術がそれらの膨大な記憶を、ほとんど無限に保存することに成功した。忘却のためにさまよい続けた人々の歴史は終わりを告げ、人は記憶することで未来を照らそうとする。あらゆるものに意味を持たせるのだ。それは闇にさえも光を照らそうとする行為に似ている。この世に、人の知らないものがあってはならないのだ、といわんばかりに。

 欠如することによって人の運動は初めて始動するのだと考えるのは、、センチメンタルなかんがえだろうか。膨大な記憶によって、人の欠如は最小限に抑えられた。だが、人は記憶によって、その運動を止めなくてはいけなくなったのだ。神経症に悩む友人は、記憶に追い立てられるようにして、八方塞になるのだ、と言った。正しい判断をするために膨大な記憶が脳を駆け巡る。それがすべて検討されるまで、彼は硬直状態に入る。彼は前に出る運動と後ろへ出る運動を同時に行い、どちらが正しいのかを検討しなければいけないのだ、と言って笑った。再び動き出すまでに幾許かの時間が流れ、硬直状態から解き放たれる。その彼が硬直状態から解き放たれたとき、激しさだけが、彼を襲ってくるのだ。彼は頭の中であらゆる考え、あらゆる方法が、並列し、選択に迷ってしまうのだ、という。だから、動き出したときは、確かに自信がある。でもそれもつかの間だ。膨大な記憶はすぐさま、彼を疑心暗鬼へと誘う。
 
 満たされた世界に生を受けることは、活動そのものを欠如させる。欠如した活動を得るために、さまよい始める。WEB、紙面、ビル街、荒野。田畑。山中。さまよい、人は体に宿る記憶を手繰り寄せるのだ。忘却することと記憶すること。人は、完全に満たされたとき、死へと至る。活動さえも満たされ、もはや欠如するものがくなれば。その瞬間まで人は決して満たされはしない。欠如した何かを求めるのだ。死にいたるまで、おそらく、満たされることはない。八方塞になりながら、わずかな隙間、空間へと運動せざるは得ない。

 高く鋭い声で鳴く雉の声は、彼岸にも届くのだろうか。「気違い」と呼ばれた者たちが欠如したものは、もはやこの世ではなかったのではないだろうか。彼岸のかなたへ声を投げかけるには、あまりに言葉たちは未熟であった。ゆえに、雉のように空間を支配するような高く鋭い声でなければいけなかった。求める声は、彼岸へと続くのだ。


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散文(批評随筆小説等)Copyright ブライアン 2007-09-26 13:38:31
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