「熱帯夜」
ソティロ

「熱帯夜」





窓を開けても風がないから空気が留まっている
モンスーンが南方から官能や昏いものの香りを
運んできたのだけれどそのリズムはこの部屋で
止まって
澱んで
行き詰ってしまう


夜の濃度が増していってからだはそれについていかない
酔ってくたびれてしまう
そうして
夜はまだまだ膨らんでいく



今日の昼間
蝉の死骸をいくつもみた
こうこうと照らされた
アスファルトの道路の上に
からからに渇いて
転がっていた
六本の手足を律儀に折り曲げて
渇いていた
もし足があたれば
かさかさと音がして
少し転がっただろう
踏みつければ
みし と かさ
の中間の音を発して砕けただろう
夏の暑さは
今日あたりがピークだったのかもしれない
でももう体力はだいぶ奪われているので
残暑の方が余程辛く思える


蝉の死骸を見た時に、ふと
蝉が地中で七年過ごし
地上に出て七日で死ぬ
という話を思い出した
同時に一週間の生を終えて
艶もなく
所々砕けた透明の羽根を持つ
蝉の死骸を
可哀相だ
と思った
論理や倫理でなく
直観で同情したのだった
しかしよくよく考えると
それはこちらから
見ているからそう思ったのであって
ほんとうは
ちっとも可哀相なことではないのかもしれない
と思った
きっと
アスファルトに死骸は還らないだろう


七年地中で過ごし
地上で七日生きて、死ぬ
それを
何かと重ねる気にはならなかった
その後は
交尾のあと卵はどこへゆくのだろう、と
別の方向へ考えは流れていった



真夏の夜の訪れは清清しい
大気中の青の成分が少しずつ増えて街はじっと待っている
ゆっくりと西の方に太陽が移って黄金に輝いて空を染めて
そのいのちを燃やし尽くすさいごの光を放つ
そうして少しずつ夜がその領土を広げて
ひとびとやそこにいる生命やいのちのないものまでもが
畏れながらもそのからだを預け、祝福すらする
(いのちのないものにも魂は宿る)
地表や生命が夜に熱を返して
夏の夜では、それを奪うのは風だ
そしてまた、風が新鮮な夜に更新する役割を持つ


そう
この季節の夜は奪うものじゃなく
過剰に与える夜なので
密度の高い夜が積もっていくのをただ受け入れるしかない
咽るくらいの夜だ
その夜を排泄することも出来ず
からだは夜とその熱を吸収して
風船のように膨らむばかりだ


夜に浸りながら
夜の輪郭を形づくるものは何だろうと考える
夜がもしも物体なら
気体だ
容易に吸い込んでそれが血液のなかに入って
動脈を流れ出す
血のにおいがしている


そうして眠りについても
それが悪い夢ばかりを運ぶので嫌だ
いつも追われているような
焦っている夢や
大事なところで
水中にいるみたいにうまく動けなかったり
声が出なくなったりする
助けを呼べない



時々近くの国道をバイクが
ばーんばば、ばーんばば、ばーん
と騒音を立てて通ってゆく
右の手首を手前へ、
奥へと上手に捻っているのだろう
移動する、
という本質とはあまり関係のなさそうな
音量と旋律が時には重なって通り過ぎる
彼らは夜を切り裂きたいのかもしれない
そうだとしたらとても無謀なおこないだ
でも
そうだとすれば彼らのこころを
ぼくは好ましく思う
夜やその他一切のちからに対するおそれ
を持つということはとても大切だと思う
そしてそれに抵抗することもまた大切だ
そういう風に人間はやってきたのだろう
しかし騒音はとても耳障りで迷惑なので
出来ればやめてほしい


そのなかにひとり夜を越えるために
スピードを求める者がいるといい
夜のはやさよりも速く
ただ、ひたすら逃げる
そんな奴がいるといい
一直線に伸びる国道を
仲間達で不法封鎖して
そいつをいかしてやる
ヘルメットは被らずに
目一杯右手首を手前に
ある速度を越えたあたりで
たぶん世界が変わるだろう
でもそいつは一層逃れられなさを知る
もう
メーターでは表せなくなって
それでも加速を続ける
恐ろしくて止まることは出来ない
やがて直線は終わる
ゆるやかなカーブが始まって
でも体を傾けることはしない
ブレーキに親指以外の四本をかけることもなく
クラッシュして
そのままのスピードで
放り出されてしまう
遠くへ
バイクは原型がわからないくらいに
曲がったり
砕けたりして
そのとき
そいつは夜を越えることが出来たんだろうか



とりとめのない考えを止められずに
寝苦しい夜は続く
人間は夜に溶けることが出来ない
夜の重さを確かめながら
ただ、じっと眠りが訪れるのを待った



遠くで救急車のサイレンが聞こえる
徐々に近づいて、音程を下げながら
通り過ぎて、消えた








自由詩 「熱帯夜」 Copyright ソティロ 2007-08-22 01:02:08
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