樹海
円谷一

2004年8月の寒い朝 うっすらと霧のかかる山と目と鼻の先にある一軒家で(それらの間に樹海が広がっている)君は縁側に座って漬けていた大根を洗っているおばあさんの様子を見ている 昨日は森の近くまで行ったのだが時間が遅く引き返し暗闇の中灯りの灯ったここに泊まらせてもらった 時はこれ以上進もうとも戻ろうともしない 漠然とした時の中で心の何処かに樹海は死ぬ為にある場所なんだよということを共に感じ 山(富士山)の蒼さにノスタルジーを感じて白さに安心感を覚え 総合的に閉塞感を抱いていた 


どうして森に行きたがるのかは君しか知らない なぜなら心は君の隣にあるからで 所有物ではなくなっているからである 君の目(心)は深い森の中を既に潜り込んでいる 何処まで進んでいるのか分からない 目を光らせ ハクビシンのようにじっと息を殺して闇の中に潜んでいる 何時になったら動き出すのか分からない きっとその場所で実際に進んで 越えた時にどんどん想像が広がっていって四方八方に飛び散るのだろう おばあさんが焼き魚に味噌汁 たくあんに白飯を用意してくれた 食べ物の湯気が顔にかかって朝の湿っぽい空気がそれを冷やしてくれた 丁寧に頂きます と言うとお腹が空いていたのか君と顔も合わさずに黙々と食べ続けた 大根の適度な歯応えが良かった 大根4分の1分は食べたような気がする この漬け物とてもおいしいですね と言うとおばあさんはとても喜んでくれた 食事が終わってさて出発しようかとする時におばあさんは白米の握り飯とたくあんを渡してくれた 何処へ行くのか分からないけれど気を付けて行くんだよ と心配してくれて言ってくれた 大丈夫です 危ないところへは行かないですからと笑って返した 本当は命を粗末にするような場所へ行くのだ そしてもう外の世界へ引き返さないかもしれないのだ 遠くから手を振るおばあさんに手を振り返して歩いていった


森は不気味な程静かで無数の口を大きく開けていた 廃車が一台ボンネットの口を大きく開けていて その中に蜂の巣を作っていた 蜂が花も無いのにブンブン飛び回っている 五月蠅いからはたき落としてしまおうかと思っていたが君が無言で中へ入っていくのでついて行った


森の中には至る所で木漏れ日があってそこに足を浸すととても気持ちが良かった とても多くの自殺者を抱えている場所とは思えない 漠然としているが恐らくは永遠の午前中でいつも晴れているのだろう ありとあらゆる木々に首吊り死体がぶら下がっていて 中には白骨化して頭と胴体が切れてしまったものもあった 埃が酷かったが 蝶の舞う美しい場所で景色がぼやけて見えた 谷底には無数の死体が散乱していた それでも谷底を流れる川は美しく 川の音に小鳥の囀る声に蝶の羽音に耳を澄ませれば楽園に見えなくもなかった 君は岩に座ってこの世界全てを見渡したようだった 君に 死ぬの? と聞いてみると死ぬわけないじゃない と瞳の奥の森を見透かして言った おばあさんの渡してくれた握り飯とたくあんを腐乱した死体に囲まれながら食べた だんだん視界が霞んでいって握り飯を落として腐葉土に倒れた 辛うじて見える視界からは君が既に息を引き取っている姿が見えた にやりと笑ってこれでよかったんだという思いで目を閉じた


自由詩 樹海 Copyright 円谷一 2007-07-31 05:24:21
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