実験的感覚的その6
円谷一
「なんで歌の中で貴方って呼んでくれないのかってね」 と僕は君に文句を言う
「貴方って何か年上の方の言い方っぽくて嫌なのよ」と君
部屋の中に光が射し込んでいる お祭りの前日の為か外の世界は浮ついている
僕も君も上気している
君は僕の為に曲を作ってくれた 曲が書ける人は魔法使いのようだと思う クラビノーバを弾いて英語混じりの歌を歌ってくれる
君の美しい歌声に耳を傾ける 部屋中の埃が光を浴びて浮き上がっている 日溜まりが僕のところまで伸びてきて君を輝かせる
部屋の中の世界は停止した 時計の針の音が聞こえない
君は目を閉じて弾いている 僕への想いをたくさん込めて高らかに 君は僕のことを好きなんだなーと思う そして僕も君のことを愛していると思う
やがて演奏が終わるとその余韻を確かめる為か両手を膝に置いて君はじっとしている 僕はそれを見て目を閉じて 停止した世界の音に耳を澄ます コーヒーの冷めていく音が聞こえてくる 時計の針に埃が落ちる音が聞こえる
光で満たされた部屋は凍り付いているようにも見える 様々な思考をくぐり抜けた果てにこの景色が見える 僕はその距離を頭に思い浮かべて溜め息をつく 人間は実に色々なことを考えるものだ 思考の壁
光だけが絶え間なく熱を帯びて部屋の中へ入ってきている 日溜まりが温い水溜まりのように感じた 天使がお漏らしをしたんだ 僕達までもが停止して心の中まで探られている間に
僕は光の中へ入っていって 頭を支点にして体がゆっくりと反転していくのを感じた 君はもう一曲弾いた瞬間に鍵盤の右手の薬指を支点にして時計回りに体がゆっくりと反転した 部屋の中にある物という物が同時に反転していって 僕の視界の隅に冷めかけのコーヒーが宇宙空間のように零れていくのを見た 気が付いた時にはその現象は収まっていた コーヒーだけが日溜まりの床に広がっていた
雑巾でコーヒーを拭いている間にも君はあの曲の続きを弾いていた 心地良い気分で洗面所に洗いに行って 手を洗って熱いコーヒーをまた注ぎ直した 砂糖とクリームをたっぷり入れてスプーンで掻き回すと(さっきはブラックだった)君がクラビノーバを弾くのを止めて僕に抱き付いてきた 僕はきっと悲しい思いをしたのだと思い マグカップを椅子の上に置いてゆっくりと介抱した 時間は動き出し 12時5分前を指していた 抱擁しながら僕はずっと時計を見ていた 君の背筋と首筋を見て頬と頬をくっつけた 体温を混ぜ合わせて同じにした
「なんで貴方って呼んでくれないくれのかなってね」と僕
「君の方が詩に出てくる人に近づけるでしょう?」と君は泣き顔で言った
時計の針は12時5分を過ぎていた 鳩が5分遅れに出てきて鳴いた
光が消えて僕は 雲が出てきたことを察した