たぶんトロイメライ
朽木 裕
夜勤明け、眠ることに勤しんで迎えた午後6時。私は唐突に髪を切りに行くことに決めた。いや、以前から決めていたのかも知れない。なにしろ私の前髪は鼻を越す長さだったので。
(この日常はただのノイズ。明日には何もかも消えるわ)
洗髪で眠り、髪を切られながら眠り、マッサージを受けながら眠った。諾々と記憶に残らぬお喋りを義務のように終えた頃、私の髪は随分と軽くなっていた。
(自分のことを強いと思っている人なんていない。きっとそうだと思う)
ギリ、とわけも無く下唇を噛んで、途方もない目眩。空耳が聞こえたりした。そこにある筈もない踏切の警鐘音など。
(ああ、誰にも否定されたくはないのだ)
分かって貰いたくて、否定されたくなくて私は殊更臆病に息を吸っては吐いている。唯々諾々と。日々を消耗する。血が足りないことがひしひしと実感できて、頭の奥がくらくらした。今、ここで昏倒してそれと同時に世界が終わるといいと思う。心残りがあるとすれば彼の人が傍らにいないこと。ただ、それだけ。
「…どうしたら、そうやって強くなれますか?」
耳に残ったままの不愉快な言葉。私は強くなんかない。生きることにこんなにも薄弱な意思は私を強くはしないよ。なにを食べても味などしない。誰かといればそれが味に変わるだけ。食べたくもないものを無理矢理、胃に入れるだけ。それでも食べることをやめたら私はもう生きることを放棄してしまう気がして。たとえ吐くのだとしても食べる。「おいしい」って反吐が出そうな笑みで食べる。
(なんだ、私は迷子のままじゃないか)
はやく見付けてよ、なんて嘯いてみる。繋がれた手を解くのはいつだって私なのに。結局昏倒もせず、世界も終わらずに私は車を走らせている。切ったばかりの髪で鉄塔と淋しい空のある場所へ。なんとなく心が虚無で、死にたかったり生きたかったりアンヴィバレンツ。鉄塔の群れを眺めながら世界が水に浸かる様をゆっくりゆっくり想像する。水没妄想。私の夢ではいつも何かが水にとろけていくのだ。弱く薄く世界に存在する意思。強くありたいと願いながらも弱さを楯に嘆きながら生きる私はとても薄情で惰性にまみれている。だから夢では全てを無に帰すかのように水没していくのだろう。虹の約束を破った人間。誰ひとりのせないノアの箱舟。水に侵食された世界。それはたぶんトロイメライ。