批評は愛か、それともエゴか。
宮前のん

批評は愛(詩や詩人のためを思っての行動)なのか。
批評はエゴイズム(己の利益だけを考えた行動)なのか。

私は、その人によって違うし、その時々によっても違うと思う。

どんなに酷評したって、その詩が大好きで、すごく好きで、
でも詩としては稚拙で、って場合もある。
「この詩、好きです! でも点数は0点♪」なんて某詩の批評会でコメントした人が居た。
あるいは、どれほど言い訳したって、自分の論文に酔いしれている場合だってある。
それは、詩によっても違うし、批評する人によっても違う。
「愛を持って詩を批評しよう!」と心に誓っても、どうしても嫌いで愛のない場合も
あるし。
逆に「素晴らしい論文を展開してやるぞ!」って思ってても、
すごく素敵な詩に向かっては、もう、愛情表現しか出来ないって場合もある。

要するに、決めつけられないものだと思う。
本人がそれを愛と自覚するなら「批評の根源は愛」なんだろうし、
本人がそれをエゴと認識するなら「批評の根源はエゴ」なんだろう。

それは、子育てに似ている気がする。
私の母親のように、子供を産んだけど「自分の人生を彩るために子供を育てた」
ような人も居るし、「本当にその子に幸せに成って欲しい」と思って育てる
母親もいる。また、それは子供と親の相性のようなものあるし、あるいは
タイミングのようなものもあるかもしれない。
でも私の母親は、エゴイズムで私を育てたけれど、本人には全く自覚は無い。
むしろ、その横暴とも言える押し付けを「愛」だと言ってはばからない。
「あなたのためよ」と言うことを止めない。自分のためだろ!って言いたくなる。
私だって、愛を持って子供を育てようとしているけれど、いつのまにか
エゴになっていないか、そういうのがふと心配になる時がある。
理想を、自分の理想をただ単に押し付けているだけなんじゃないか、と。

私は「批評は詩のために、愛を根源にしたい」と思う。
でも、エゴになっていない自信はない。
だから、常にエゴになっていないか、検証しなければならないし、
あるいはエゴな部分を認めながら、愛をベースに語りたい。


散文(批評随筆小説等) 批評は愛か、それともエゴか。 Copyright 宮前のん 2004-05-12 15:25:46
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