独白・書くこと、と、読むこと
石原大介

私は一年ほどまえに勤めていた会社を退き失業保険となけなしの貯金にてパソコンを購入、偶然にもこの現代詩フォーラムに漂着、以来やっとこさ、人様に読んでいただくためにものを書くという行為に目覚めつつある寝坊スケな若輩者(三十ちゃい)です。それまで詩のような言葉たちを大学ノートに書きなぐっていないこともなかったのですが、いま読み返せばそれらは詩作品と呼べるような代物では到底ありません。
たとえば生涯に一遍の詩すら読んだことのない人に詩は書けないでしょう。仮に第三者がそういう人間の書いた言葉に何かしら詩的なムードを認めたにせよ、それを詩作品と呼ぶことはできないでしょう。そういった意味で私は現在、みなさんの作品を読んで楽しく勉強中の半人前の身であります。その昔、受験勉強の合間に我を忘れて心酔したラジオの音楽番組を思い出します。それは自身に眠る音楽への愛を強引に揺すぶってたたき起こしてくれました(大槻ケンヂ氏のオールナイトニッポンです)。おかげさまで、私は高校一年の秋に大学進学を断念、一度は音楽活動から遠ざかったものの、いまやアマチュアロックバンドのへぼドラマーとしてとても充実した毎日を送っています。親にはとっくに見放されてます。友人からは、とりあえず音がでかいと褒められます。


>「私は正当である健康である病気ではない」、ということを最終的に証明で
 きると信じているような人間はここには居ないと考えて差し支えないのでは
 ないか。 そもそも貴方とか私とか、とは他人の詩に心打たれたり、その挙
 句にああいうのちょっと自分でもやってみようか、などと考える、そんなお
 人好しな連中のことである。


これは以前、私がある方のある文章に向けて発した拙い言葉の一部です。
「他人の詩に心打たれ」るとはその詩の言葉を「読む」ということ。言葉や空白の造形に美しい音楽を感じたり、概念への切り込み口(=読み)の鮮度を追体験したり。

書くことと読むこととが同義であるような、そんな言葉をつむぐことができたら素晴らしいなあと思います。それが詩であろうが批評であろうが、はたまた散文であろうが。書くことと読むことがこの場所でどんどんと出会っていけたらなあと。




未詩・独白 独白・書くこと、と、読むこと Copyright 石原大介 2004-05-12 10:03:43
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