*浮き島
チグトセ

短編小説。長いです。



僕は睨みつけた。この狭い視界の中から、猜疑心満載の眼差しを、ちらつかせながら、今見えている僕の居るこの世界に、差し向けた。

掴もうと手を伸ばしたが、ここには多くの膜や壁があっていちいち距離感を把握しにくい。そして、人間の本能は哀しいことに快適さを望むから、僕はできるならその不可解で大事な本能に逆らわないようにしながら、目の前にある「もの」をとりあえずひととおり睨む。

「そう、それは現実だよ」彼が喋った。僕はそこに手が届いたことになる。ところが、場面をよく思い出せない。僕は、必ずどこかにはいなければいけないのに、その重要性に気付いていなくて、その時僕がどんな場面にいたかを記憶しておくことに重きを置いていなかったことが、今更になっての重大問題だった。僕は一度深く絶望し淵を見てから浮上し思い出した。僕は神社の境内にいた。ひどく蒸し暑い夏だ。陽炎が波打って、コンクリートが気持ち悪く軟化して、耳たぶに、小さな虫がとまっている。ひどく可笑しくて滑稽な虫だ。真っ黒な影をそのまま体に引きずって小さな世界に魂を入れ込んで、彼はより宇宙に近く、自我を持つほど単に愚かにかけはなれていった人間という生態を不思議そうに眺めている。何より彼は悟っている。そうでもなければ死が怖いからだ。僕は虫を殺し、どういう手段だったかは忘れたが、とにかく殺し、目にあまりよく見えなかったので、彼の生温かさを感じなかったので、数秒後には死体のことなんて忘れてしまった。暑くて、胃の毛穴からミルク色のミルクがうんざりしたようにのぼってきて、目を閉じると、そいつはしめじのような頭をした白い幽霊だった。瞳は充血しているのか赤い。コミカルに口を大きく裂けて笑って、コンニチハなんてほざく。ああ、こんにちは。そっちはどうだい。暑いかい?

僕の隣には友人の寺内がいる。向こうの木の茂みにはシノがいる。目の前の灼熱の砂利の上にはサラリーマンが倒れていて、空からは粗雑なプロペラの音が降ってくる。お香のような、おばあちゃんの匂いが薫った。ピアスがひどく痒い。
「お父さんのように、できるのかい」
寺内が親指の爪を眺めて言った。
「愛なしで生きていくことができる?」
「解釈はしてみた」
僕はのっぺらぼうな声で喋った。一応、喋ってみた。言葉の意味なんてわからない。自分が何を喋っているかもわからなかった。
「それにしても、暑くない?」
寺内は再び口を開く。
「ああ、暑いな」
僕は答える。
「そうか。よかった」
「そうか」
「もしかしたら暑いのは俺だけなのかも、なんてことは思ってないけど、仮に俺だけが暑かろうがお前もみんな暑かろうが、別にどっちだっていいけど、あれ、じゃあなんで俺はそんな確認をしたんだっけ」
「じゃあ、喋りたかったんだろうさ、きっと」
僕は、喋った。

真っ白なミルクをどうにかかき回す。ぶらぶら垂れた足下を見る。沈丁花が花壇らしき場所でゆらゆら揺れている。サラリーマンが寝返りを打った。シノの、真っ白なスカートが扇子のように広がってばさばさはためくのが見えた。寺内が言った。
「例えばだよ、この世には俺とお前しかいないんだ。そうだな……緑の生い茂ったサバンナにいる。それで、象を一匹飼ってる。他には、誰もいない。誰もいないんだ。とにかく誰もいない。家族も、誰もいないんだよ。死んだのかもしれない。いなくなったのかもしれない。いや、そうではなくて世界が丸ごと死んだんだ。だから、死んだのは俺たちのほうなのかも分からない。とにかくそんな状況なんだ」
「破天荒な状況だな」
「そう。でね。俺たちは腹が減った。お前はその象を食う?」
僕がしばらく考えた五秒間が過ぎた。
「そこらへんに生えてる草でも食べるよ」
寺内はゆっくりと瞬きをした。
「……でもな、お前、草は不味い。けど、象は焼いて食べたらきっと美味いだろう。少なくとも草よりはな」
「なあ、ちょっと待ってくれ」僕はぎゅっと目を瞑った。「俺たちはその象を使って何をしてるんだ? ……何のために象を飼ってるんだよ?」
「別に。象は何の役にも立たない」
「じゃあ初めから飼ったりなんかしないだろう」
「いや、それ以前に必然的なことだったんだよ。世界には、俺とお前とその象の三体しか残らなかったんだから」
僕はまたしばらく考えた。
「じゃあ自殺するよ」
「なんで」
「なんでって……愚かだから、だろ。考えてもみろ。そもそもそんなこと考えた奴が一番死ぬべきだろう?」
「なぜ空腹を満たす幸福を選ばない?」
「空腹を満たすことが幸福だと考えてるから」
寺内は短くため息をついた。
「お前が何を言ってるのかわからないよ。俺とお前は生き残るべきじゃないな。なんで地球最後の人類である二人が、たった二人しかいないのに、生きるために象を食うか食わないかで喧嘩しなくちゃいけないんだよ。いいか。俺は間違いなく象を食うぜ。というより食わない意味が分からん。そしたらお前は俺を許さないのか?」
「いや、それはお前の好きにしたらいいよ」
「いや意味が分かんねえ」

それから、僕はシノのいる緑影を見つめてまた少し考えた。
「なあ寺内。例えばだ。さっきの話で、もし生き残りが俺と寺内とシノと象の三人と一匹だったら、だ。俺はたぶんお前を殺すな。それで、あとは好き放題シノとセックスしまくって子供をたくさん作る」
言ったあと、寺内を見ると、彼は眉間に深い皺を刻み込んでいた。
「……なんで。だって遺伝子的に考えたら、二人いたほうが繁栄するじゃん」
「まあそうだけど。でも俺の雄の闘争本能が、きっとお前の殺害を選択する。きっと……いや、必ずだ。絶対的にだ」
力を込めて言い切ると、寺内は明らかに傷ついた顔をしていた。どうか、そんな顔をしないでほしいと僕は心の底から願った。
「……まあ、例えばだ、寺内。三対三の合コンに行ったとするだろ。で、相手の女の中に一人だけすげえ美人がいた場合……」
「うるせええ!!」
寺内は縁台を思い切り踏みつけて立ち上がった。こめかみに青筋が浮かび上がっている。顔面蒼白で、目が赤く充血している。
「うるせえよ……もうお前の話なんか聞きたくねえんだよ!」
僕は、唖然として寺内を見上げ、シノは、そんな二人のただならぬ雰囲気に危険信号を察知したのか木陰で戯れるのをやめてこちらに向かって走ってきた。
「ちょっと、二人ともー。喧嘩はよくないよー」
僕は寺内を真正面にとらえた視界の隅にシノを映し込み、直後、シノは砂利につまづいて転んだ。あつあつに熱された砂利にしたたか顔面を打ちつけたようだ。うめき声をあげてゆっくり膝を起こした。「いたたた……」
「なあ」寺内は僕を睨みつけている。「例えばだ。さっきの話で地球最後の生き残りが、俺とお前とシノちゃんと知らないサラリーマンの四人だった場合、お前はいったいどうする?」僕は身動きを取ることができなかった。プロペラの音が、何か大きな生物の鼓動のように、ものすごい速さで早鐘を――
「場所は……そうだな、神社の境内にいる。それで、ここから出られない。どうやら世界はここしか残っていないらしいことも確認済みだ。俺たちが死んだのか、世界が死んだのか、よくわからない。さあ、どうする?」
「サラリーマンは……いてもいなくても同じだよな。はは……仕事でもしててもらうか」
「じゃあ、お前の意見は変わらないんだな?」

寺内は鋭く言い、僕はバックステップで飛び退き、僕のいた空間を寺内の拳が引き裂いた。直後、地面がなくなって僕は台の上から砂利へ落下し、重力の方向と前後左右が一瞬わからなくなり、無我夢中で体を転がすと寺内の荒い息がすぐ耳元で聞こえた。闇雲の拳を放つ。空を切る。砂利の音が五月蠅い。プロペラの音が五月蠅い。傾いだ地面が見えた。寺内のよれたシャツが見えた。脛に渾身の蹴りをくらい衝撃で僕は倒れた。寺内も倒れた。手を伸ばし寺内の髪の毛をつかみ取った。引き落とし、寺内の顔面を思い切り砂利に叩きつける。シノが悲鳴を上げる。
何度も叩きつけるうち、寺内の体がだんだん柔らかくなっていくのがわかった。力が抜けてきたのだ。もう一息だと思った瞬間、シノに後ろから抱きつかれ、思わず手を離してしまった。
「もうやめて……やめなさい、もうやめなさい……」
シノは涙声で繰り返し、僕は体を起こして尻もちをついた。寺内は、震える肘を砂利に突き立て、土と血と涙でぐちゃぐちゃに塗られた顔を上げた。どうやら戦闘は終わってしまったみたいだ。僕は脱力して笑った。横隔膜から直接笑いがこみ上げてきた。
「……なあ、寺内、俺さあ……シノの意志を尊重するのをうっかり忘れてたわ……」
寺内は、おそらくだが、そうかよ、と呟いた。しばらく時間が流れた。プロペラの音は次第に遠ざかり、間もなくカラスの鳴き声に変わった。日が暮れる。やがて、サラリーマンがむっくりと起き上がり、束の間ぐるりをいかにも事務的にきょろきょろと見回した。そうしたあと、革の鞄の表面を二、三度払って立ち上がり、そのまま歩いて神社を出て行った。世界は三人になった。
「なあ、寺内、結局さ、象ってどういう意味だったの?」と僕は訊いた。寺内はうなだれたまま、意味なんかねえよ、と答えた。
「マジかよ……」
日が暮れる、そう、寺内は呟いた。僕はうなずいた。
ああ、そうだな。
そろそろ、帰ろうか。



散文(批評随筆小説等) *浮き島 Copyright チグトセ 2007-05-25 13:36:18
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