我が家のピエロ
加藤泰清

卓上でピエロがたたずんでいる。しばらくぼんやりとピエロを見つめていると、突然彼はこちらをむいた。どうやらぼくの呼吸の振動に酔ってしまったらしい。彼はそのことを簡潔に説明した。すみません、とぼくは右腕で彼の体を支えた。黄緑と橙を半分ずつに分けた色の鼻をつけたピエロなんてものはとてもでもないが珍しいらしく、だから私には卓上で棒立ちするぐらいの仕事しかない、いや仕事とも呼べないかもしれないね、月給もでないから私はこの仕事を好きでやるしかないのさ、とぼくに聞こえないような声で愚痴を吐いたけど、彼の口元はメイクの影響ではなく単純にとても大きなものなので、のどぼとけも正面から見てもとてもするどく尖っているのがわかるほどの大きさだったので、ぼくにはすべて聞こえていた。そして最後に吐いた呪いのことばも聞こえた。(だからきみにはどこかにいっていてほしい。そうでないと私は鼻息に酔ったままで気分が悪い。きこえているだろう?)彼はそれからもなにごともなく卓上でたたずみ、時にポケットからタバコをとりだして吸ってみたり、とても控え目な発生練習をしてみたり、反対のポケットからお菓子をとりだしてポリポリ食べていたりしている。もうすでに、ここにピエロはいない。いや、初めからいなかったのだろう、とぼくはそう感じた。ぼくが今日は冷えますねと言っても彼はただたたずみながら、そうですねとあたりさわりない答えを返す。喉が渇く、といったのでミネラルウォーターでよければ、とぼくはペットボトルを差し出した。すると彼は簡単なお礼をいってぼくからミネラルウォーターをすばやく奪いとりあっという間に中身を飲み干した。まだ半分も入っていたのに。ピエロもどきはありがとうと丁寧なお辞儀をしてペットボトルを返した。しかしぼくは手に取ったその透明なボトルの底に白く泡立ったものが浮いていることに気づいた。ピエロもどきは「プレゼント」と一言しゃべった。ぼくはぎょっとして思わずそのペットボトルを彼に投げつけた。いきおいよく回転したペットボトルは彼の頭にぶつかり、中身はそこらじゅうに溢れ飛び散った。部屋は水浸しだ。中身ははもう飲み干していたはずなのに。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。しかし奴はけたけたと下品な笑いかたをしてぼくにひどい口臭をはきかける。口臭と奴の気味の悪い鼻の色を目の当たりにして私は吐き気をもよおしひどく酔ってしまった。おいうちのようにけたけたの振動で水面に波紋ができている。深いところにはぼくの脚が屈折によってねじ曲がっている。もはやひとりでは立てない。椅子の背に腕をつっぱらせてなんとか立っていられた。ペットボトルからはまだ水が溢れている。それにあの白いものも一緒に流れでている。止まらない。ぼくは慌ててキャップを探したのだがどうにも見当たらない。ピエロもどきに、ペットボトルのキャップを知りませんか、とたずねたが奴はわざとらしくどこからともなく手鏡をとりだし口を大きく開け自分の歯を見つめている。きこえないふりをしている(親知らず親知らずと呟いている)。彼の両脚は卓上の上で、彼はぼくの今のつらさをしらない。水位はぼくの胸にまで届いている。しかたなくペットボトルの口を手でふさいだが水は止められても白いものは口と手の間から滑らかに糸をひいてこぼれ落ちる(もしくはぼくの手の中を通りぬけていく。ぼくの手の中の血と白いものが混ざりあい、同調して、励ましあっている、とても気持ちが悪い。その時ピエロもどきはぼくの方を一瞬のぞいたように見えた。奴の右手はぼくを油断なく狙っている)。奴が卓上でたたずむようにぼくも卓上にはいあがろうとするのにやつはぼくの卓上への侵入を阻止する。領地侵犯? まさか!「ここはぼくのいえなんだ。じゃまをするな。みにくいくずめ」ぼくは罵声を浴びせた。なのにピエロもどきは力なく、にやついている。たちまち水位はぼくの首が浸かるまでに達した。卓は水面に不安定に揺れながら浮かんでいる。ピエロもどきは頭が天井にぶつかって少しもたたずんでいられずに、(力なくにやついたまま)水の中へ飛びこんだ。水面はますます白いもので溢れ、奴が飛びこんだあとには付け鼻が残った。これが彼の、もどきの、いわゆるひとつのけじめであると確信したのはつい数時間前のことだが、この時水面からくちびるをつきだし必死で息を吸いながら立ち泳ぎしてるぼくも必ず気づいているに違いない。そっと手をのばして付け鼻をつかんだ。やけに生温かくて、ぶにぶにしていて、おなかの中の時の事を思い出した。


自由詩 我が家のピエロ Copyright 加藤泰清 2007-05-21 01:46:18
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