鉄塔を登る幽霊
錯春

   半熟卵の茹で時間
   花ふきんの縫い方 
   幽霊は鉄塔を登るということ
   君に教えられたいくつかのこと
   学校でも新聞でも初めて体内を往来した光も
   教えてくれなかった
   知らなくても幸せになれる
   誰も口に出さないのに皆が弁えている一般常識



   伝えられるいくつかの言葉を
   柔らかな真白い下腹部の水槽にまたひとつ 
   沈めながら君を待つ
   見上げると
   堤防に鉄塔
   ゆりゆれる
   しじまの影 白いつぶらな まなこ
   幽霊は清潔だ
   私よりも 瞳はきれいだ
   満ち潮のときだけに頭をもたげる灯台が
   毛羽立った水面の下から
   長い睫毛をたゆらせながら こちらを見ている



   鉄塔を登るのは 決まって涙で濡れた瞳
   じゅうぶんに輝いていなくては足場はみえないから
   風すらもたじろぐ衝動で 情動で
   魚の骨と
   植物の茎と
   耐熱硝子に似ている
   
   吹き零れていくにまかせて
   空は
   晴れているのを見たことが無い
   少なくとも
   私が君を待っている間は



   待ちきれない 傘越しに灯台を睨む
   チューインガムさながらに 噛まれ
   吐き出されて 一瞥される
   その瞬間だけ 私は 生まれてきた
   その瞬間だけそう思える
   君の手はよく 肘から 上に向かって曲げられていて
   その先にはよく 私の好きな
   花
   シャボン玉
   風船
   抱きしめてくれるそのときに 飛び立ってしまうので
   私はそれを 凝視することができない
   私の好きなそれらは
   一定の高さまでになると そこでとまる
   鉄塔を登る幽霊だけが
   それらをみることが つかむことができる
   鉄塔を登る幽霊は 慈しむ視線でそれらを撫でる
   鉄塔を登る幽霊は 優しいさわりかたをする



   鉄塔を登る
   服がどんどん色褪せていき 吹き零れる
   体の内側から 
   花ちり紙でつくった大輪の芍薬が 惜しげもない
   涙が目蓋の淵をたどって 外気に触れると芥子の種ほどの
   完全な球体になり
   私の頬を覆い尽くすと 手摺りが その先にみえる
   大声を出しながら 涙を垂らしながら
   こんなにも離散する感覚は 生まれたあのとき以来だと
   懐かしく思う
   


   空にたくさん よく熟れた木苺色の風船が飛んでいく
   それらは鉄塔を登る幽霊にだけ 触れる距離まで飛んでいく
   登りそこねた私は
   相変わらず 君に抱きすくめられている
   日に焼けたコンクリートに しっかりと影を落とし
   君の手は温かいね
   まるで焼けて溶けてくっついてしまいそうだね
   まるでずっと死んでいるみたいだね 私達
   待ってたよほんとだよ
   君の声が聴こえやしないか
   ちょっと欹ててみただけ   

   鉄塔を登っていく 幽霊は清潔な瞳をしている
   
   一定の高さまでになると そこでとまる
   鉄塔を登る幽霊だけが
   それらをみることが つかむことができる
   鉄塔を登る幽霊は 慈しむ視線でそれらを撫でる
   鉄塔を登る幽霊は 優しいさわりかたをする
   


自由詩 鉄塔を登る幽霊 Copyright 錯春 2007-05-14 02:05:07
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