取引き
ならぢゅん(矮猫亭)

婚約記念に貰った腕時計をどこかに失くしてしまった。大むくれの
妻に言わせると、神さまか誰かの啓示なんだそうだ。――結婚なん
かなかったことにしなさい。返す言葉に窮していると建築業者から
電話だ。もっともらしく眉をひそめて現場に出かけた。

その赤いハンドバッグは湿った盛土の上に置かれていた。ビニール
にくるんで埋めてあったというが、それにしても色が鮮か過ぎる。
――お心当たりはございませんか。施主様にも事情が判らないとな
ると、届けやらなにやら、ちょっと面倒なことになるかも知れませ
ん。さびた口金をそっと開くと、折り目正しくたたまれた離婚届が
あった。女の白い手が目に浮かぶ。苦い想いを葬る慎重な手つき。
どこか見知らぬ街で、見知らぬ女の想いが、息を吹き返すような気
がした。――取り壊した借家の住人が捨てたんでしょうね。管理を
頼んでた不動産屋にあたってみて下さい。

帰り途、ディスカウント店で時計を買い電車に乗った。座席にから
だを預けると、また女の白い手だ。向かいの席で文庫の頁をめくる
指が、離婚届の女と似ている。妙に長い指。目が離せられない。白
い手がしだいに静かに光り始める。その周りはむしろほの暗く、次
々と闇が吸い寄せられる。中でもひときわ濃い暗みに女の長い指が
沈んでゆく。少しずつ。喫水線が手首の骨の突起を洗うと、白い皮
膚がくすぐったそうに粒立ち、今度はそっと指を引き上げ始める。
幾度かのまばたき。ふいに赤いマニュキュア。その先には、なくし
た時計が、だらしなくぶらさがっていた。文字盤を滑る秒針に安心
した僕は胸ポケットから一枚の紙を取り出す。離婚届。その文字に
女も安堵したようだ。差し出すと時計をよこしてきた。取引きを終
えると僕らはそれぞれ時計と離婚届とを闇に滑り込ませた。微かな
落下音を聞きながら僕らは小さく会釈を交した。

湿りを帯びた闇が何くわぬ顔で散り拡がってゆく。その一片が買っ
たばかりの時計の文字盤に落ちて、黒い針は三本ともありかが判ら
なくなった。


自由詩 取引き Copyright ならぢゅん(矮猫亭) 2003-05-01 17:12:15縦
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