「犬が人間を襲い、80代の老人が死亡」
渕崎。


「犬が人間を襲い、80代の老人が死亡」

− こんなニュースがつい先日飛び込んできた。
犬は即捕獲され殺処分。 目があった途端に襲い掛かったそう。 犬種はここでは控えておく。

3年前に、3歳の女の子が犬に襲われた。 命は取り留めたものの、その可愛い顔に
たくさんの手術が施され、子供を持つ親たちを恐怖に陥れた。
その数ヵ月後、MP(国会議員)の飼い犬が隣人の子供を襲った。 殺処分になった。
立場上、そのMPはテレビの画面に登場し涙を流していたけれども、一言も謝りは
しなかった。 「うちの犬がそんなことをするはずがない」、彼は最後まで自分の
犬が加害犬であることを認めなかった。

連日、TVで色々な「犬の専門家」と呼ばれる人たちが登場し、意見を述べる。
これできっと、犬に対する法律がまた厳しくなるんだと容易に想像がつく。
一番簡単な逃げ道だから。

無意味な討論が交わされている中で、私が大変共感を受けた意見がある。
犬の問題行動を矯正するトレーナーの方が、こんなことを述べていた。
問 : どうやったらこんな事件がおきなくなるのか?
答 : おきなくなる? そんなことは不可能だ。 これからもっと増えていくだろう。
そしてその都度法律も増えていくんだろうけども全く無意味だね。
一番大切なのは、飼い主をはじめとした社会全体が「犬を犬と認めることだ」。
犬を「4本足の家族」ではなく、「4本足の人間」だと思いすぎていやしないか?
飼い主はここでよく「犬」という動物の能力をよく理解する必要がある。
襲った犬の飼い主の100%が「うちの犬がそんなことをするなんて」というが
全ての犬が「そんなこと」をする能力を持っていることを忘れないで欲しい。
−というような内容だった。

Blog 羊の国のラブラドール の記事一部より抜粋



うちにはミニチュア・ダックスフンドが一匹いて日々共に暮らしている。
愛犬と日々を暮らすということは、ともすれば犬の専門家がいうように飼い主であるわたしに
彼が「犬」であることを忘れさせてしまうかのような時がある。
日々を共に過ごす彼はわたし達にとっては確かに「家族」のような存在なのだ。
けれど、彼は「犬」で「4本足の人間」ではない。
一緒に暮らすうちにわたし達は彼ら愛犬と多少の意思疎通ができるように感じ初めて錯覚しがちだが、
彼ら「犬」は自分の意思を明確に的確に正確にわたし達「人間」に伝えることはできない。
できないがゆえに、もしわたしの家族の一員である愛犬がわたし達家族の見ていないところで
誰か家族以外の「人間」を咬んだ時にわたし達は、そのときに起こった出来事は被害者となった「人間」の言葉以外を聞けないのだ。
そこに公平さはない。
けれど、そもそも「人間」と「犬」という二種族の間には公平さなどは最初から存在しないのだ。
「人間」と「犬」は最初から平等になどなりえない。

わたしは愛犬を愛している。
愛しているからこそ、躾を施し、彼が犬であることを認識し意識しなければならない。
わたしが冗談交じりに常々口にする「こんなでも狩猟犬なのにね」という言葉の通り、
狩猟犬として交配され種を保ってきた愛犬は本能を剥き出しにして人間に牙を向けば、
人間の肉など神経など平気で噛み千切ることができるのだ。
愛らしい目をわたし達に向け、甘えるように擦り寄り、喉を鳴らす彼がわたし達家族に牙を向かないのは、
そう躾けられているのと、相互間に信頼が存在し、
そして一番の前提としてわたし達家族が彼に牙を向かせる様な浅はかな行動をとらないからだ。
けれど、他人がそうだとは限らない。
近所の子供たちが何の意図もなくうちの愛犬に牙を向かせるような行動をとらないとも限らないし、
また、何かの拍子にうちの愛犬が本能的に牙を向けてしまうこともないとは言い切れない。
だから、飼い主であるわたしはまず相手を傷つけないために、
というよりも「愛犬」の命を守るために愛犬が「人間」を傷つけないように気をつけなければならないのだ。
それが飼い主の義務で、愛し方の一部であろう。

甘やかすだけが愛じゃない。
わたし達は、彼を守るためにも彼が「犬」だということを常々認識しておくべきなのだ。


散文(批評随筆小説等) 「犬が人間を襲い、80代の老人が死亡」 Copyright 渕崎。 2007-04-24 21:30:35
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