【小説】お百度参り
なかがわひろか
女は雨の中を、願いを胸に抱き走り続ける。女の残す素足の跡が、雨の路に流れる。長い黒髪が雨に濡れる。滴り落ちる水音が誰もいない神社に響き渡る。
雨は止むことがない。低気圧が男にすがる愛人の様に停滞する。気温は昨夜から下がり続け、女の足はきっともう感覚がなくなっているだろう。それでも女はその足を止めない。
女を滴る水音が、女がまだその足を止めない証である。
〜一〜
一人の年老いた男が立ち止まる。
戦争を生き、戦後を生き、残り少ない寿命にしがみついている、男。
妻に先立たれた後すぐに、家を長男に譲り、老人施設に隠居することを決めた。同じような時代を生きた者たちと余生を過ごすのも悪くない。
朝食を終えて、いつもの散歩道、何故か足がこの神社に向いた。
いつもと違う道。
鳥居をくぐったところで、女の姿が見えた。
女の後ろ姿を見ながら、数十年前の光景が脳を過ぎった。
戦争。
それは何のための戦いだったか。
それを知ることは、国を裏切ることに等しかったあの時代。
男は戦場に向かおうとしていた。
戦場。
戦う場所。
しかし男にとってそこは戦いの場所ではなかった。
死ぬための戦い。
最後の願い。
仲間と最後の別れを過ごした夜、男は怖くて、独り泣いた。
先に行った仲間は、皆死んだ。
戦争は男が出発する直前に、あっけなく終わりを迎えた。
一瞬で世界が変わった。男は、当時に生きた仲間たちは、もう戦うことはなかった。
男の仲間たちは、戦場にたどり着く前に、どこか知らない国の上空で消息を絶った。
国のために散った命は、誰にも見取られること無く、肉片と化し知らぬ国の土に還った。
男は涙を流していることに気づく。昨日何をしたかも思い出せないのに、何十年も昔の仲間の後ろ姿は今も鮮明に覚えている。
女の駆ける姿を見て、男は涙を流した。
願い。
祈り。
そんなものがあの頃にあったのだろうか。
生きようとすることは、悪であった。
生き残った自分は、国を裏切ったと同じ扱いをされてもおかしくなかった。
しかし、あの瞬間。
世界が変貌した瞬間。
自分は正しいとされ、今日まで生き残ってきた。
私は生きている。
そして、泣いている。
年を重ねた己の顔に、仲間の最後の顔が重なる。
死を受け入れた、その顔を。
男は今、同じ顔をしている自分に、やっと許しを得た気がしていた。
男は女に気づかれぬように、帰り道を急ぐ。
〜二〜
少女。
小学校に入学して、まだ間もない頃。
買ってもらった大きな赤い傘を持って、家を出る。
母親も父親も祖母も祖父も、皆が弟に付きっ切りになっている。少女は甘えた声で皆に寂しさを訴えるが、誰も相手にしない。
少女はまだ知らなかった。
死を知らなかった。
それだけまだ幼かった。
大きな傘を持って、ペタペタと雨路を歩く。
お気に入りの傘。けれど誰も誉めてくれない。
遊び相手の弟と一緒に入る予定だった。
けれど彼はみんなに看取られながら、ベッドの中にいる。
少女には、やっと雨が降った日に、何故未だに寝ているかが理解できない。あれほど待ち望んでいた、雨の日なのに。
大きな傘。
しかしそれでも少女の肩は、少女の服は、濡れた。
こんなに大きな傘なのに。
少女は役に立たない傘をうとましく思った。
雨の中を走る女を見て、少女は自分の持っている傘が少し格好悪く感じた。
女はただ美しく、雨の中を駆けていた。
少女は羨ましかった。
大人であるということを、いとおしく思った。
弟の泣声は、家の外にまで聞こえていた。
少女は本当は知っていた。
弟の泣声に、ただならぬ悲壮が漂っていたことを。
それを死と呼ぶことを、少女は知らなかっただけだ。
しかし、いいのだ。
今はそのままでいい。
雨音に、弟の泣声をかき消せばよい。
知らないことの幸福を、今は感じておればよい。
雨は続く。
女のポケットに入った、小石が擦れ合う。
雨音と紛うような音。
まだ響く。
〜三〜
何年振りかに訪れた神社は、境内も汚れ、しかしそれは昔のままであることの証明であるように見えた。
幼き頃に、近所の友人たちと遅くまでこの神社で戯れた。
そんなこと、ここ何年も思い出すことは無かった。
次に女に出会うのは、一人の紳士。
都会で財を成し、富を築き、思えばいつしか犠牲を厭うことがなくなった。こんな風に故郷を思うことなど無かった。
母が死んだのは、一昨日前のこと。
そしてこの地に足を踏み入れたのは、昨日のこと。
時間はただ過ぎる。
それは何年も、変わることなどなかったはずだ。
紳士は、母が死んだことを、当たり前のように受け入れた。
いずれは死ぬ運命。
早いか遅いかだけだった。
ただ一つ危惧するならば、何か大きな商談がないことを祈るだけだった。
彼の祈りは通じた。
紳士の母親は、何もない金曜の夜に死に、日曜の昼間に、焼かれた。
紳士は何の心配もすることなく、母親の死の儀式を終えた。
女の足が跳ねる。
その度に彼は、昔を思い出した。
母の声が聞こえた気がした。
雨が紳士の顔に降り続ける。
紳士はそれでよかった。
紳士の涙を雨は薄める。
〜四〜
紳士の妻。
男の犠牲に身を尽くした女。
雨に涙を隠す夫。
初めて見せる夫の顔。
妻は知った。夫の弱さを。
愛を。
〜五〜
女はまだ走り続ける。
願いを胸に、ひた走り続ける。
雨に濡れた長い黒髪。
それはとても美しい。
女はただただ、美しい。
一人の老人と、一人の少女と、一人の紳士とその妻が女の姿に出会う。
女は何故走るか。
女は何故止めないか。
雨に濡れる女に、最早遅すぎた願いを、皆は祈る。
〜終〜