詩集・人生の最中に
生田 稔

詩集「人生の最中に」
         批評子

(序) 

 公子に

 薄暗き読書する部屋に
 時すぎゆきて30年
 海の泡のごと、生きてきしこの方
 争いもあり、愛もあり
 まともな人々とは交わらず
 勤めて風来坊や乞食のような
 人々を愛した
 涙も沢山流した
 湖の面に詩がしぶき
 風吹くカーテンに賛美が
 ひるがえり
 妻と手をとりて湖国をあちこちと
 人は中睦まじい夫婦と評す
 吾等二人
 共に労苦して主に従い
 47,60歳となる
 30年クリスチャンとして歩んだ
 この記念の日、妻に捧ぐこの詩
 いつかは振り返りて懐かしむべきなり。
 (1995・8・27)

 54歳にならんとし

 山野に男女在り、貧なれど酒有り
 大笑谷にこだまし、大食腹満つ
 願う貧に過ぎず、富みに過たぬを
 人道平坦ならずも、丘遠に望みあり
 人老いて白髪、顔面さび濃し
 前途幾ばく、残る歳少しやも知れず
 吾はただ神を待つのみ。

 湖畔の夕べ

 今夜は妻のボーナスの日
 子と妻と三人で
大橋の袂のレストランで
 ビールをもう一本飲めと
勧めてくれた妻が悲しい

 グライダー

 グライダーに乗りたい
 三十一文字のような
 限られた時間と空間を
 できるだけ広く自由に
 グライダーの名手は
 詩人などより幸福かも
 わたしがとおつた
重苦しいい人生には
グライダーの
無意味さがなかった
そのために旗振りの
仕事をしてもいい
誰かグライダーに
誘ってくれないか

笹小舟

細き川、流るるままの笹小舟
今日は日暮れてゆく道の
旅のつれづれ
妻と共、放ちし笹の小舟行く
先は知らねど、幾たびか
重ねし宿の多かりき
旅のゆきずれ、すれあいて
契りし頃のなつかしき。

Littlassの朝

また朝だ 夢が醒め のびをする
彼女が笑っている
彼女の心が遠くのほうから
すがしき朝のこの思い
遅き朝食とベートーベンの
田園 息子は外へ遊びに行った
タツラ タツラ タッタラ ラッタと
CDがひびく
秋は深く 日曜の机で。

絵と少女

少女は絵が好きで
画廊に通った
結婚したら子に絵を教えよう

今朝 少女はあれから十年
琵琶湖の砂浜を夫と歩く
あのころは15・6幼い心

君の好きな絵をみに行こう
と夫は言う
自然は絵はわたしを誘う

一日終わって、日記の中には
今日はすばらしい絵を見た
と書いておこう。

僕としてはながい詩

 世間の風は寒い
 金儲けは辛い
 競うことには耐えられぬ
 家にこもって読書する
 人が嫌いなわけじゃない
 子供が好きだ
 虚栄もないし、男女も関係ない
 積み木を沢山集めるように
 文庫本を集めに集めた
 時々つまらなくなる
 でも本が好きだ
 父からうつされた病
過去の人が持っていた熱中

 人を憎むことに堪えられない
 何故皆美しいばかりでないのだろう
 聖書を読んでみる
 神を賛美する詩篇のなんと物憂い
 正直にものを言うたら
 クリスチャンでなくなるだろうか
 そんなことはない
 私の影響と人の影響
 今日はと言えば
 近所のご主人は唾を吐く
 どこからそんな憎しみが
 努力しても生まれない愛情
 妻と僕と息子は、でも仲が良い
 本で読んだ全体と個の問題
その著者の扱う、マルクス・ニイチェ  
ヘーゲル・カント 
 人は皆神だと言う

小熊秀雄さんの詩が心に沁みて
 また詩を書き出す
 そうだこれからは彼のように
 長い詩をどんどん書きまくろう
 吉村姉妹のさわやかな話し振りに接して
 今日の慰め
 わたしの考えは人に伝わっているらしい
 
 昨夜の妻との話も聴かれてしまったのかも
 妻に横田姉妹のことを話したらはぐらか
された
横田姉妹不思議な姉妹
真実は汚いから
私は詩の衣を着る
一杯のコーヒー一片のパンにも
ありつけず
淋しい小熊さんのこと
生い立ちは僕より不幸
でも僕は君の詩が好きだ
プロレタリア詩人とエホバの証人
通じあうものがある
君は決して小説に転向しなかった
金儲けのため小説を書く者を罵倒する君
短歌を捨てて詩を書く僕
女たちはあまりにも虚栄的
それが運命というものだろうか
どんどん綴れ、小熊さんはそう教えてくれた
パイロットのインクにつけペンを挿しながら
人間の弱さを思う
暇があれば書けと
小熊さんは教えてくれているようだ
人も僕も幻滅しないで
詩の帳を立てつづけよう

いつか、ソロモンとゲーテの恋愛感について書こうと思い立った
聖書の雅歌とゲーテの?若きウエルテル?を並べてみた
恋に悩む大勢の青年に道を示そうと
女に力を費やすなと聖書は教える
確かにつまらない
だって好きだからよと女は冗談のように
軽く片づける
そうだなあ、女と男と二種類しかないのだから仕方がないののだね
と人生経験を経た苦労人のように
僕は割り切れない
深く追求してもその範囲を出ることはない
同性愛はぞっとする
あの方は赤ちゃんのように清い人ね
そんな人は大人には居ない
恋をしない人は僻むのかも
もっと老人にならねば
その絆を切ってしまえ
問題が多く起こるとカタルシスが
生じると思ったことがある

平和は飽き飽きすると言う人も
恋の骨折り損のくたびれもうけ
くだらぬとばかり言ってはおれない
ああ、赤ちゃん
0歳の息子の清い笑いを今も忘れぬ
美醜とは何か
そんなものはない、我々はみんな原子だ
分子だ素粒子だ

恋なんて面白くもない
お母さんに連れられたミカちゃんは
家の人の言うことをまねて
?けっこうです?が口ぐせだった
熱心だったのにクリスチャンをを止めた
やまぐち姉妹、その日涙があふれた
人におもねるべきか、おもねざるべきか
午後3時、茶を飲みつつ一息入れてまた明日。

曇り日の月曜日
唐崎の湖に来て
波静か、ゆくては霞み
絵を描く人、桟橋に
ビールを飲みつ、綴る詩集
今日の空、靄のかかりて
近江富士は見えず
さすらいの水鳥ら
神やしないたまう
雨つづき小川の水豊か
葦は枯れて、木々に葉はなく
人影少なき、湖畔に座す

風吹きて雪の舞い散る日
三人四人五人
ぞろぞろぞろ
散りてはやみ、時折陽がさしこみて
三人四人五人
どんどんどん
細き目の風信子
ひたすら歩む
行くてははるか
神の王国

(心の湖より湧きていず、ふと涙。小熊秀雄の詩集読み終わりて)

ルネッサンス、つまり文化の復興
をわたしは強く願う
人は愛と真理のために
目覚めるべきだ
古きよきものに帰れ
どこまでも、さまよう
この文明よ

ソロモンとゲーテー、聖書と世の恋愛感の比較
ウエルテルとロッテが再会して
被害者はどっちかと論争した
ウエルテルが咎めるロッテの冷たさ
ウエルテルこそ男らしくなかったと
ロッテは言う
愛想つかされ、女心を知らず
ロッテを得られなかった

詩を書く人は常に不遇
僕もその一人かも
詩はあまりにも鋭く心を突く
それだから小熊秀雄やバイロンやゲーテ
と交わる
少しづつ彼らをのぞいてみる

アダムはきっと岩清水で顔を洗っただろう裸のイブと自分が美しくて
満足しただろう、彼らの幸福は
誰も知るまい

君詩を書きたまえ
朱色の口紅を塗るよりも
石鹸で洗った顔に
輝く美しさを見出さねば
心の中に朱色の口紅のような
詩を書くとき
君は幸せだ
君よ、詩を書くために
人は世に在る。

コーヒーブレイク
美しき諍いの後
一杯のコーヒーを
3階のレストランの
見晴らしのきく窓辺で
三人の女が奥の席で
しゃべっている
(1995・9・27 曇り日・午後3時)



花と食

緑の野の水仙
女は花なのか
一人部屋にいて、部屋には飾りがある
植物園で、ダフォディルに

向うのほうで揺れている
沢山のダフォディル
印象、夢に描くワッズワース
君、詩を書きたまえ

今年、冬、蟹を食べに 
越前へ行こう
食べるため
生きるため

沢蟹を採りに女の子と
登りがけ、ひやかす近所の子 
二人とも年寄り
なにも思わなくなって

戦争、空腹ばかり
花と食べ物、通りを歩く
両側、花がいっぱい、旅行帰り、食堂
紺のブレーザー、忘れ
電話、有ります

水仙の花、高雅さ、胸を満たし
今日、一日が始まる
空にジェツト機の音、静かな団地の朝。

 夕べに
 
 キヤンドルの小さな灯
 妻と妹がしゃべる
 ポピュラーが囁く
 散文的になりそうな詩
 空腹で続かぬ

 ジャズがなりだし
腹はくち
あまりにモダンで
詩にしにくい部屋
に妻と妹と僕
 
「大菩薩峠」をやると妹は言う
貰っちゃだめと妻
だって三十巻でタダだぜ
やっぱりだめだった
嫁と小姑ではね

雲間草       
 
 くもま草くもま草
 夕べ哀しい通り道
 妻とまたきた
 緑なしたる
 春の路

 スーパーに売られてる
 可憐な花よ、くもま草
 妻に与えた
 蕾ついてる
 春の花

 連れ立ちて訪れる
 花が咲いてる石垣に
 妻と歩いて
 見つけた花が
 くもま草
                 
青い少女

あんたの顔を見ているよりケーキよ
俺はビールよ
いつもおなじところにすわつているんだね
かねあるからね
おれきょうはごひゃくえんさ
 
ビールをのんでしまったら
まただまって
空をながめてる、おなじところ、おなじふく
だれもはなしかけない
ちかごろだれもそうなんだ

今度いってもそうしてるだろう
おれもそうなんだ
あめがふる、さむい、そくおんきのおと
ぎんざのこいのものがたりのテープ
あおいしょうじょはきょうもじっと


「五月の名曲」

 五月雨あけて晴れ渡り
 もみじの青葉目に沁みて
 シューベルトの第五番
 ベートーベンに学びしか
 部屋に軽やか流るる日

 妻と息子は居らぬ昼
 紅バラ庭に咲き出でて
 シューベルト第六番
 心を誰に伝えんか
 机に向かい書きとめし

 病は癒えて詩を書けと
 空と太陽ニコニコと
 ベートーベンの第五番
 家に戻りて聴きし日の
 喜びなぜか忘られじ
  
印察された氏

羽田かをステタ
カオダ
ぴ科祖、ピ過疎
九時半
革命
うどん
見回す

しろ、光、印象派
パストラーる
見回す
歌麿
待ちす、ピカソ
自殺した彼
経済新聞

インク、無い
だめ、六枚
足を洗う
ペテロ、パウロ
孤独
キリストは

えろ、なんせんす
台かんげい
パフアップ
派宇土
りんご、波佐凝れでもか

夜のひと時

午前0時いますぎゆく
安定剤がきく
酒がまわる
カレーライスをチンする
もう寝なければ
妻は病院 勤務
子は夜中まで電話をかける
しんしんと夜は更けて
ぞーぞーと夜は寒い
チンしたカレーを食べながら
「路傍の愛人」という詩を読む
「俺と連れ立つすばらしい少女は
パラソルのエメラルドのなかで燃えていた」とある。

「鯨の死滅する日」

はじめて坂本に父母と共に居を定めた頃
大江健三郎の3冊のエツセイ集が
まだ田舎の小さい三信堂書店に
並べてあつた
中を調べてみたわけではないが
買いたい 買いたいと思いつつ
幾年も過ぎていつた
あるとき お金が入って
その3冊を求めに、急いで歩いた
まだ同じところに3冊とも並んでいた
彼のエツセイなど、この地では
誰も買わないらしい
書店のレジの奥さんが
パンパンと埃を払った
古くなって、ちよつとみじめになつた
のを嬉々として持ち帰った
すぐ読んでしまって、その中から
ヘンリーミラーを知った
セクサスという彼の本を次に買った
健三郎のエッセイのなかで、性的に露骨なのは
彼の影響だとほのめく
「万延元年の〜  」などはそんな風な
ちよっと、のぞいて止めたが
文芸雑誌の対談で「遅れてきた青年」を知った
不良少年が東大を出て云々
戦後特有の少年
で僕はあつたが、こんなじゃなかった
僕はチンピラやくざだった
社会の影響というよりは
次郎長伝 の映画にあこがれて
人にはそれぞれゆきかたが
大江さんの講演 論旨の明確さがもう少し
女の子がしきりに笑う

受験の話は東大らしい
彼のノーベル賞
僕が読んだ 谷崎 川端 とはまるでちがう
彼は日本をわすれている
カフカとサルトルの影響が
川端さんの「美しい日本の私」は
雪月花とあり 読まなくともわかる
「あいまいな日本のわたし」は
よくわかるが 彼のちょっとした幼稚さじやないか
わたしはカント・ヘーゲル・ニイチェ・ハイデッガー
キユルケゴール・・・・・が好きだ
聖書もぜひ
哲学から文学、文学から哲学
詩から散文、散文から詩
ただとびちらう蝶や落ち葉
これからの我々にも課題が
永遠にわれらはいざなわれていく。


 
拓次さんへ
拓次さん、お金がなかったかもね
独身だつたそうだ
詩で食っていけない僕
詩をたいせつにする人少ないね
書店に詩集がすくないことよ
店主だったら 半分以上詩集 歌集でうめるけど
そんな店みないなあ
恋人もお金かなあ                
あなたの美しい詩を読んで
判かつたよ
禅坊主でも 修道僧でもない
ただ詩人だ
僕はね 永年の貧乏詩人やめて
ばかになるよ
いまに詩の時代が来る

  
林檎の歌笛

紅い実をつくリンゴの木々の
春まだ浅き夕暮れの
通り道にはものかなし
笛をしきりに吹く娘
あたりで遊ぶ童が尋ぬ
 姉さん 姉さん
どうしてそんな悲しい歌を

よくぞ問うてくれたのね
わたし今年の十九の春に
他国へ売られてゆくのです
紅いリンゴの頬の色さえ
もう色あせて老婆になって
その運命こうして笛を吹くのです

姉さんよ、おいらもいつか
大人になれば
姉さんの吹くその音色
響く心に思い出し
涙を流してやりますぞ

ああ、もう日は沈み
灯点しごろ
笛を吹くのはもうやめて
向こうの山に帰ります
坊やもいえに帰りやんせ 帰りやんせ

遠くかすんできえてゆく
後姿ももの悲し
世にありふれて伝えらる
今夜は曇り 蒸し暑く
昔話もおおかりけれ・・・・・・。


 ビトウイーン ユウ アンド ミイ

夕暮れの道のノーテイ ガアール
少しも大きくならなくて、そんのまんま
細い目でクツクツ笑って
いつしょに入っていった神の家

遠い旅して彼女はやってきた
イエスの予言調べあう
クツクツ笑って

午後10時、妻と枕を並べて
眠る
明日を思い煩うな
彼女が
夢の中で微笑んでいた。

光あれ修羅の国                    
 
世は修羅の飢餓の都
狂ほしき狂女の里
時告ぐ鐘の音
歓楽の夕
狂乱の舞の知らせ
いでくる衆も数多
壁は崩れ
童子ら打ち興ず廃屋の
大集落
終わりなきけらくの者
樹よりおつ
抱擁の男女
老若ぼろをまといて踊る
市には乙女ら売らる
バビロンの掟の
値付け始まる
曰く何ら災いなし
狂わぬ人もなし
山の書物積み
いたずらに想をねる
直き人ありて
歩きて善をすすむ
言う 神あらば悪消したまえ
あらしめしは何故
救いは何処
求めてえじ
川の彼方 人たちて
光よ光よ こよこよ
修羅の巷出で
鷲の翼にのり
光さす都へ
未了なり 歌うたうこと。

中国を訪ねて
 
海を飛ぶ飛行機食事して
 しばし酔いけり中国麦酒
 
 中国と日本、
 どことも異なる点一つもなし
 女と男

 ガイドの説明ききつ
 寒山寺を訪ぬ
 自ら十得・寒山に
 学びしを
 
 グットバイ、蘇州
 再来期す
 砂巻き上がる道を行く
  
曇り空両岸の灯り
やっぱり中国に来た
 
異国の語四方八方よりきこえ
こんな経験はまだない
 
酒あれば何のことなき支那の夜
バーボンのグラス傾ける

一人酒手酌酒演歌も聴ける
上海のホテルの夜は更けて

夜深く上海一色この部屋に
バーボン、パバロッイ

 ゆきずれ
 
ゴトン、ゴトン
あんたなんか知らないよ
と吐き捨てるように
 
煌煌たる光
あんたもこうなるのよ
傍らの死体を指して

ちらりと顔を見せた
博子ちゃんに似た
支那服の女

上海の街角

妻に似た
ゆきずりの女
ふと出会った
二十ぐらいか

妻の姿ととりかえに
交差点に立つ女
俺もぎりぎりだ
お前しかないのだ
 
妻は一人だと
あの女は教えてくれた
白き衣にくるまり
俺はこの詩を書く

花びんの薔薇は桃色
北京に向う列車
明日は毛先生に会う
彼のように大きくなろう
 
同室の旅の友と
大理を説きて止まず
早朝、しばし睡めり

平野に男一人
点在、じっと考えて
極まりなし

「一金百万円也戴き候」

いたるところに故郷あり
給仕する娘
青き服
顔赤く、恥ずかしき
中国娘

いたるところ、街あり
すれちがう娘
紫の服
目光り、去り行く
クーニャン

双丘

華に傑物ありて
双丘をなす
双丘の城をおとづれる
宮殿深くして
極めきれず
体労して
椅子による

一舎あり訪ねる
王国の後裔
筆を持ちて
書をなす
一字に万金
三字に数万金
懐中になし

路あり、車走る
木々繁茂して
山高し
空に陽、風吹く
熱気満ち
路困難
前途に期す安土

万里長城
眼前に現る
人々集まる
騒がし
錦布三十枚千円
四十枚千円、しきりすすむ
願う,一枚千円のもの


大連

ターレンと中国人呼ぶ
別れきし
北京よりの
中継地に

朝鮮も中国も
白を好む
空港の
白い中国機

大連の空青く
山かすみ
彼方の
うつくしき街

中国の焼酎に酔い
したためた詩歌数首のみ
中国大連を去る

中国を訪問して思った、初めての外国、よく似た顔と姿、後姿が誰かとそっくりの男と女、貧しい人々、でも笑顔とおしゃべりで生きている。それだけに純情で憎めない中国人。
素朴でサービス精神の料理。あっさりした独特の麦酒。広々とした部屋や庭。日本の売り子と変わらぬ接し方や、話し方、態度。
 十年したらもういっぺん訪ねよう。豊かな平和な中国がそこにきっとあるであろう。

 朝の椅子

二メートル・三メートルの空間の中に
人のことなど考えない全ての人が
だけどさ
隣の犬のマルコちゃん
可愛いよ
難しく考えると
いやになって
デッドロック

鍵をはずしてドアーを開ける
広い広い野原
カフカの審判
込み入った建物
「なぜ知っている」などという
ソフイストな彼
家の中から英語が漏れる
セールス・パーソンの笑い
 
朝の十分、暖房を止めて
もうやめめる。

 四季好日

春の小寒き朝、夏の輝かしき昼
秋の夕暮れ、夜そば食う真冬の遅く
趣ありて
徳富蘆花の随筆、漱石の愉快なる出だし
谷崎の世に馴染み、川端の寂しさ
ギリシャ・ラテンの古風なる
梅のねばり、桜のいさぎよさ
薔薇の華やかに、菊の香りして

今日も雲一つなく
陽の射しこみて、風はばたかず
晩秋の一日、机に座す
腹くちく、望むこともなし。


若者たちよ何処へ行く

若い者たちを眺めるにつけ
スーパーの駐輪場などに
茶髪や耳輪をつけ
たむろする彼らを見ると 
悲しい
私もかっては時代に反抗する若者であった
日本は自らを開拓して
なにもかも世界的になって
エルビスや、ビートルズにせつけんされた
世代から
風俗のカオスがはじまっつた
とくに女の子達は悪くなつた
真理や正義を追究する学問はすたれ
儲けや快楽が私たちを支配している
理想や希望はうせ
偏差値とか高等教育、エリート
などというものを親は子にすすめる
酒やうまいものや、かっつこいいもの

何でも手に入る、三十万円のカバンとか
ブレンド物と化合しているニヒリズム、
シニシズム、ヘドニズム
日本は物質に乏しいからはたらかにゃならん
冷たいインテリー学生にならないのなら
ロックコンサートで思いっきり手をふり
腰を振る
古い道徳や義理人情にすがりついている
中年や老人たち
それでなんとか、学校も警察も
やっている、規則を守ることは
利害と関係するようになり
政治家はやたらと賄賂をとり
没落していく

こう思う
やれ、遂げ、思いっきり騒げ
きっと、ばかばかしくなって
めざめるさ、
人類の乗っている大きな列車は
きっと目的地に着く、
宗教も政治も教育も
商業もひどいカタルシスの末期で
ある
静々と始まり
平和がくる
本や映画や曲やテープは山ほどある
もういいよというときが必ず来る
世を動かしている怪物にも
体力の限界、気力のかぎりが
あるのだよ
きっと、彼は落ち着いた
静かな人になる
良心や秩序や恵みを
求め夢みている人だっているのだ
理想をかざしてこえをはりあげて
世の前に立ったもののことを
忘れるな

私たちはきっと満足し感謝し
平和のために働いた人をほめる
だろう。

「伝道」

みんな伝道にゆこう
春の朝
陽光ほのかに
蝋梅にぎやかに
四人五人 つれあい
戸口を訪ぬ

みんな伝道にゆこう
夏の陽の
ギラギラと汗を流し
青葉しげる路
木陰に憩うもたのし
またまた訪ねゆく
 
みんな伝道にゆこう
冬の氷や雪
曇り空に心沈むも
枯れ木の家々
坂道や細き路地も
かえりて訪ぬ

君もわたしも彼も彼女も
まいにち まいにち 伝道してます。


  春の路

百花繚乱、頃三月
行く 吾ら
桜も梅も咲きいでそみて
昼の飯店で

微睡みて
男女の舞いをみむ
歌声響く部屋
窓に陽光差し入り
鉦の音に夢やぶる

肉不味く 菜魚好む
舌鼓うち 出でぬ
妻と親しみて
こを賦す、午後三時。

      
 失望より醒めて

青きペン取り上げて
雨の降る窓外
モームのサミングアップに目がゆく
いつもの書斎、思い出はつきず
花瓶にさしたる百円の造花
チェックのハンカチイフ
こんな生活を続けていてもよいのだろうか
午後になれば うとうとと ソフアーの夢
花がたあむれあう
楽しく雀たち餌をついばむ
さあ、散髪にいこう
美しき絵もみよう

こんな詩らしきもの書き
心慰めん
しとしとと夏の雨
恋愛映画を観たいなー。

素晴らしき日曜日 

 今朝、妻が働きに出た。「気をつけてな」と妻に例のようにいい、
自分は部屋でこれを書き出した
人間は、アダムの昔、ごくごく無知だった
今の人間も本質はそんなに変わっていないけど。相当賢くなった
その証拠に、今私が使っているパソコンは相当なものだ
そのこととは直接関係はないのだけれど、マア読んでくれたまえ
「素晴らしき日曜日」という映画いつまでも心に残り、妻と話をす
「隣のトトロ」息子と観た、思いでさわやか
「オズの魔法使い」心を暖めて忘れがたし
「帰らざる河」ズベ公て純情なんだなあ
「オルフェ」失望のどん底のころ観た不思議なもの
「白熱」悪い人はわるい人なりにいい人だ
「少年の町」フラナガン神父の広い心と少年の無邪気
「寅さんシリーズ」沢山ありすぎて、一遍だけだったらいいのに
「難船崎の決闘」何にも知らなくて、ナイフのキラリと光るのを
「シミキン・シリーズ」だれからもきかないけど、ごっつうおもしろかった
「おわりに」夢を捨てないけど現実はこわい
「芸術とは何か」ヒュウマニズムなり、サルトルのいうごとく
サタンとは誰か?みんなの言うようにいい人だ
概念のない詩そんなものに走る人の心っていいものだ
もう言わない、芸術よ文明よ永遠なれ
計算があった都合があった下心があったってべつにかまわないではないか
明日の百より今日の十、食うてなんぼのわれわれだ。
裁判だって口の巧いやつが勝つ
受験だつて、就職だって実力より要領だ
人間の心は深いというが、誰もそんなこと考えたら
パンクしてしまう
俺なにいってんや、腹を立てる人いるかもしれへん
  もうやめとこ。

 ?ふりょうしょうねん(昭和三三年ごろ)

 おいでやす ようおこしやす どこからおいでやしたんどす まあごゆっくりしておいきやす わたしら京都のもんは、おしゃべりどすえ なんどゆうとおくれやすな おいくつどすの おたくさん学校でも、そなにだまっておいやすのか もうそいでよろしおすのか ほんまにがくせいさんどすのか
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ ・・・・・・・・・・・・
・ ・・・・・・ 

そんで詩おかきなんどすか かわってはりますなー おかねにはならへんとか そんで、すねかじりで今日まで 
たんとう詩をおつくりにならはって うちらわからへんは
百万遍のちかくに、おいでやすのか
おとうさんはおいしゃさんで ていだいでておはりなさって おたくさんは私大の中退でんのか
でとかはったらよろしおしたのに
しんけいすいじゃくにならはって、みんながわるくちいうてはったんどすか
そんなこというてはるひとよおけいはりますな
またいつきてくれはりますの
おかねができたらですやろ、お金がなかったらあいてにされしまへんどすさかいなあ

「うちこちゃんおじかんどすえ」

ほなほんまに、またきておくれやすや

外は、とっぷりとくれ灯ともしころ
あしどりがはやいのをみて、ひきてばあさんたち、よびかけず
かいちゅう、電車賃のみ  加茂の川原はアベックだらけ
いえのものも、どうせそんなことやろと、おもているやろと
片心にかんがえながら
でんしゃにのる、まだ二十二歳、みらいはどうなるのやろと、ようやとかんがえだしたとしごろ、ようしょの幸福論などとりよせて、字引くびつぴきで、このなつ よみおわったところ  聖書をよもうと、こうこくをみたら千二百円もする
こうふくろんは、そうりょうべつで、三百円のペーパー・バックス
だいがくでは、さっぱりつかわなんだ仏語辞書うりはらっての
きょうのさんざい

ちゅうがくのころに、裸ショウがはじまった
きんじょのぼんが「肉体の門」みてきてはなしてくれたが
さっぱりきょうみひかなんだ、はなしがざんこくすぎる
すがたのよいはだかならよいが
サドはすきやない、十六のころかよいだしてつごう二十回かいのみ
かねもないし、そんなによくがない
げいじつてきなんがよい
そおゆうたら とうきょうのしんじゅくの「フランス座」はよかった
あさくさには、「ロック座」もある
江戸ははやっぱり、いきである
関西はしょんべんくさい

だが京都へのおもいはふかい
にちよう には さんびゃくえん はは からもろて
三条どうりひとつ下がったところの京都宝塚劇場でえいがをみて
そのまえの「グリル千疋屋」でカレーかハヤシをたべ
この松竹座をまがって、たからずかげきじょうへぬけるこみちは
おもいでがある
ズベコウにふられたのも、そこのゲームセンター
いつぞやは そこのビンゴでピースのはこにじゅっぱこもあてた
しがない三下だつたおとこが、このへんのちょっとしたかおになっていたこともある
小学一年のときのともだちに、ばったりであったのもこのろうじであった
ここからしじょうにむかうと、たこやくしのところに
丸善がある

びょういんをたいいんして、いちねんほっき
ロジェーの「シソーラス」をもとめた 丸善
おなじくもとめた聖書写本研究書
よみとおすのに、なんと三十年すぎた
おなじころにかった「英文法研究」さんかんでちゅうだん
甥にやったが、近頃この本、としょかんでかりてよもうとおもう
まるぜんはいまでも盛況、宝塚劇場は、ほんの量販店になってしまつた
えいがの、しゃよう、このげきじょうを、ひだりにまがると
よく かった ふるほんやがある、たいしたほんはあらへんようだが
やっぱりあるような、よいみせであった

このみせのまえをとおつてさんじょうどうり
さんじょうどうりをはいってゆくと
しんきょうごくのいりくち
まず京都座があった
おとうとと、この新京極のいりくちをたびたびくぐった
いいおとうとだった、おとうとのおもいでは淋しい
いじめたからだ

十五、十六、十七とわたしのじんせいくらかった
でも、いまかんがえると、たいしたことはないじんせいだ
わたしにとってはくらかっただけだ
いまは、ほんばかりよむ ねんきんじいさんになった
ねんきんも,さいていかかくをもらっている
じゃあ、いまわたしがよんでるほんをしょうかいしよう

「教会史」
「物性物理の世界」
「はじめてのラテン語」
「ケルトの神話」
「ギルガメシュ叙事詩」
「法の精神」
「ローマ帝国衰亡史」
「子規歌集」
「年代記」
「オデュッセイアー」
「イリアス」
「戦史」
「歴史」
「東方見聞録」
「コーラン」
「古事記」
「善の研究」
「論語」
「日本の歴史」―中央公論
「ヨセフス自伝」
「ユダヤ古代史」
これだけ読んどけば、ほんがかけると、おもいついただけ
この上の棚
みぎから
「歌集・日没」
「私の個人主義」
「自然科学史概説」
「はじめてのヘブライ語」
「たのしいドイツ語」
「ラテン語入門」
「ラテン語基礎1500」
「北欧語の話」
「スエーデン語基礎1500」
「現代ギリシャ語基礎1500」
「アフリカ語の話」
「コンサイス英和辞典」
「日本文法の話」
「エホバに近づきなさい」
「knowledge」
「新約・古典ギリシャ語の読み方」
「哲学・思想事典」
岩波講座「日本歴史」―1―
「現代用語の基礎知識」
「EnGLIsh EtymOLOgy」
「旺文社英和中辞典」
「A DictiOnary Of English synonyms」
「マックス・ウエーバー」
「楽譜のしくみ」
「化学自由」
「物理学自由」
しんりというものは、あるいはせいしょは、これだけあればちかづける
そんなことかんがえて、そろえたんやがな
こうやって、書いた以上は、何が何でも、このほうこうで、いかなあかん
そうおもう遊野郎の道楽者の極道者の不良老人で至極真面目なクリスチャン


?嵯峨さんの?しょうしむへん?をといたら、こうなった

ししゅうをよごせ かきいれよ
あがないし、このししゅうを
わざ と ち と ことばを
きゅうしゅうし
さあ・・・・・・・
くらいつくし せめつくせ

ぶんせき ぶんり ゆうごう
アトムのついきゅうはクオークに
それでしまいか
まだある
えいえんのしんわが
えいえんのなかに えいえんが
まだまだ ぜつぼうするな
みらいが うちゅうが
かみもしらぬ

アフォリズムから だつしゅつせよ
まなびすぎた
ちょうてんにのぼった
てつがくのないじんせい
詩のないじんせい
ていめいするな
詩 などない
500さつのちょ
いちまんさつのしょ

ばんがくのはじめ
いしきのかくせい
めざめ 2個となった日の 詩
よろこび
むじゅんなし 聖学
むじゅんなし りせい

ぼくのし、ぼくのうた
ぼくのこえ
りろんはいらぬ
かいほう じゆう はだかのエバ
ぼくは はたらきのわるい パソコン
かぎりある でんさんき
はずかしくは ない
じゆうに じゆうに
まなぶのはよせ
さばくのすな ひとつ ひとつ
かぞえるな
おさない じゆう

みぎのじゅんけつ
ひだりのしゅら
かがくは すべてか
いってんにそそげ
クオーク レプトン
れんかん こうかの
かのう しらず
ろんごしらず
くまなくさがして つぎつぎと

いっさつ つくせない
できまじ できまじ
いちじが まんじを
れんかんを しるか
こてんの ちえ むげんか
カントをしるか

ずのうの ニューロン
よげんしても はたしてそうか
ハプニング われる
ひとは じゆうか
じょうねつ エネルギー
ろんりてき
おとこ と おんな
であつた だけ
へび が ゆくゆく
ちり が ちらばる
あまねくしる
ぼくのげんは めいかい
しょをなす なにも しらずに
わからない

 ひとつのかのうせいとして、ひとはもくてきをもって、つくられたのでなければならない。うんめいだ、あるいはぐうぜんのたいせきだと、じんせいをみるべきか。うんめいはかえられる。ぐうぜんは、形あるものとして、つみかさなってゆく。
 あかいつちは、神の意思に、ひととなった。つくられた、それだけだろうか。ならいつまでもききとして。おやかたひのまる。
 ちちぶさは、アダムにとって、うつくしい。きんじられたこのみの、はずかしさとあやしさ。こうふくとふこうをしる。せきにんとおいめがあるのだ。ただよい、ふかくな みらいを。

?ぶんがくどくしゅう

 東京でみつけた はやしふみこの すうさつのぶんこぼん おなじひの すうさつの たにざき はじまりであつた わせだのえいぶん いきさつわるく うまやばし てんりきょう とうほんだいきょうかい にこもり しゅうじつよむ こづれちゅうねんじょせいとどうしつ はやしの ほうろうき とてもよかった

ほんをたくさん かいこんで やまとつみあげ ねっしんに よむ
ぜんぶ しょうせつ だざいと とくだしゅうせい もくわえ
このよにんのもの ほとんどよむ よもひるもなく
そとには いっぽもでず いきがいを ぶんがくに
いもうとがほんやにいつてきてくれた
二十二さいから二十七さい たなん
十八から二十二までもよくべんきょうしたっけ 
バートランド・ラッセルきょう たなかきくおせんせい
ほかに ラジオこうざばかりきいて
かいえだすすむ ジェームズ・ハリス いわたかずお あらまきてつお
spレコードの エドモンド・ブランデンの
シェリーとキーツのろうどく
こどく こどく ししゅくした せんせいが おおい
いいしれぬ ひとのはくがい くなん くなん
だいがくごうかくの しばしのよろこび
5ねんの じごくのような びょういんせいかつ
おもいだすのも ぞっとする
なんべんも こころみた じさつ
しのきょうふの でんげきショック りょうほう
いま六十八さいまで りゆうをいっても とおらない だろうけれども
しのまぎわに いくどもたたされる

十八さいから二十七さいまでの ぶんがくの きそどくしゅう
二十八,二十九,三十まで 死を かんがえ ながらも
ぶんがくを やった
二十七さいのあき エホバのしょうにんにあう
ぶんがくに 聖書がくわわる
ついで たんかも くわわる
よしだやまの ふもとにすむ あららぎの 井上国枝 せんせい
はがきに うたをかいて おくると てんさくして くださった

三十さい じゅうきょ にしのみやに うつり
十さいうえの クリスチャンに せいしょをならう
そのとし バプテスマを うける
いらい 三十八ねんが すぎた
ことし せいしょの 十どめの どくはとなる
せいしょに かんして えんだんで いくども はなしする
ちかごろになって せいしょに かんする ろんぶんを ざっしに
けいさいして くださった ひとがいて たいへんほめて くださった
なんとなく たのしいので かなの じゆうしに してみた
68ねんの じんせいの そう けっさんである。

春のなごり

 飲まぬ酒のまねばならぬときもある
 今朝も呑む歌酒一首
 契りたる君の面影想いつつ
 ?思い出酒?を聴いている

 時刻む音のかすかな部屋にいて
 今日は晴れ外へ出ようよ
 なごりおば如何せんかな涙して
 別れの時は近づけり

 青い空心を起こしペンをとる
 グッドバイ遠くへ行くよ
 きっとくる梅や桜や桃の花
 咲きて乱れる神の国  

これを買ったら 

 「これを買ったらもうお金ない」
 見合わせた悲しい二人
 どうするの、お金ばかりの
 世の中を

 二人で働き貰うボーナス
 デパートで買い物をする
 疲れては本の夢を見て
 明日は明日

 シャンソンの鳴る湖辺の店
 夕食のランプに映える
 壁の絵も好きなものだけ
 秋風よ

光の朝
 
 黄色い花束の蕾
 朝は光満ちて
 窓の紅葉の葉の枝に
 残る葉の
 鶏庭に在りて
 餌をついばむ
 蒼穹に白い雲
 心に満ちる喜び
 乙女の心を抱く
 哲学をする者に
 喜びは限りなし
 今日も書を開く___

雨の後の部屋で

 雨が上がって薄陽さし 午前まだ暗い
 しめった床 机の上に 幸福の木
 モーツアルトをわざとかけ 少し溶ける
 返された伊藤整詩集
 ちょっと首をかしげた可愛い子
 隣の奥さんは歩いて会社へ
 青い朝顔がパッと開いて
 今朝は涼しい

 ルーブル博物館で、じっと一つの絵を見てる、今日もまた着てる彼女、花の絵なんだけど、ほしいほしいてもらしてた、清い心なんだね、給料を全部はたいて求めたって絵見せてもらって驚いた、シンプルなんだ、部屋全体がさわやかで、水炊きの湯が立ちこめてました。

見知らぬ乙女と
 
 長き長城を歩む
 広い原野に 何処までつずく
 我は歩み疲れ かたわらの
 小屋に入りて 眠れる乙女
 みつけり
 いつしか吾にも眠りおとずれて
 目醒むれば 乙女を抱き
 おり
 乙女ささやくには吾汝と交われり
 そを汝は知らず
 そのしさいおしえじ
 さあ出ゆきて 三年と六月
 すればまたこを訪れよ
 乙女吾をしかと抱き送り出しぬ
 長き長城を歩めど疲れ知らず
 中に残れる
 甘きみつをかすかに
 さて、先の乙女は誰ぞ
 何処より
 不審に 再び 賭けこみて
 さがせど見ず
 ただ朱色の布一切れ
 残されてあり
 さては美しき乙女なれど
 そをひろい 外にいづれば
 
 八月の末 涼しき風
 再び会うこともと
 長城を歩めり
 あすはいずこの宿にとも思いつつ
 歩き歩きにけり。  

 (2)


 果たしてや、数年過ぎ去れり
 男子ふと思う
 今日はあの乙女と、約せし日ならずや

 乙女と会いし長城いささか遠し
 彼馬に乗り
 やっと夕暮れごろ、長城の門に着けり
 門をくぐり、乙女に会わむと、急げり
 しばし進み行けば
 それらしきものあり
 戸あけて入れば
 絵のごとく.三年六月のそのまま
 乙女藁の褥にすわりて,待つ
 男にむかいて曰く
 「なれは、正直なりせば、
 望みのごとく、わが体与えぬ、
 さあ・・」
 男子ふと故郷にいる妻のこと思い出しぬ
 乙女いう「なにゆえ臆するや」
 男黙して答えず

 おとこにまた眠けおこりて
 座り伏す
 目覚めむれば、一枚の紙切れ残しありかくありぬ

 「汝れ、きっと妻子思い出でたに違いなし、
 さあ・・妻子のもとに帰らせたまえ」

 小屋をいずれば朝の光さし、男かなしくなりぬ
 「あの乙女、誰やも知らじに,不思議なことなり。」
 おとこ馬に乗りて立ち去りぬ
                 
 
 

 見知らぬ乙女と (3)

馬はやく駆け、男の家に着きけり
家の子郎党みな踊りながらいでいでぬ
みなみな言えり
「ご主人さまよよくかえられし
 急におられぬようになられしゆえに
 案じておりました、如何なされたや」
男言う「神の御加護であった、われはなんじらを
捨てるところであった」
「どのようなことかしらねどあなた様はいつも神様
信心なさるゆえ・無事にて帰られし
ささ、御支度をなそう、馳走の支度を
御主人さまよ
いよいよ、神を信じたまえよ
正しき者には、いつも良き報いあらむ」
「妻は何処ぞ,われ会いたし」
郎党ら言えり。
「奥様は後ろの部屋で、心配なさり伏せておられます。
さ行きてお会いなさいませ。」
おとこ涙ぐみて、「では行こう、はなしせむ一部始終を、
われは悪い妖怪にだまされて今までおりぬ」
そしてひざまづきて神に謝せり。

家に入れば、妻まだ眠っており
ゆすり起こせば、目をひらきにっこり笑い
「貴方さまよ、何処へ旅してまいられしよ
われははた心配しおりし、よかりし、よかりし
貴方様帰られし、貴方様の神がは守られしゆえに」
(妻また言う)、
これからはともに仲良くなして、あなたが決してこのような事なされぬように
神に仕え、神にいのらむ。」

 


 
陽気なスタンダール

 灯りのともる街を行き来て
 ふと寄りて、ビール呑み
 そばを食い、3人組
 陽気な仲間、吾らは細き
 スマートな仲間、花は咲き
 灯りはともる街は消え
 今憩うテーブルに、コーヒー二杯
means nothing.

本買い

 京極の書店で
 昔、父と娘が本を買っていた
 これもいかがですかと店員がすすめる
 お父さんは、うなずく
 少女はそれも買ってもらい
 いくさつも本を抱える娘
 うらやましかった
 その日わたしは一冊本を何とか
 買えるきりだった
母は言いきかせた
「お父さんがハカセになったら
なんでもかってあげるよ。
それまではしんぼうするのです。」
「いつハカセになるのかな。
ハカセて何か知らないけれど、
きっと大金持ちのことだろう。
父がハカセになったら、
ロバを買ってもらって
乗るんだ。」

幼子は幼子の心
幼子は幼子のごとく考え

その日、すばらしい本を見つけた
市外電車に乗って
家路につき
電車の中で本をなくした
失くしたことしか覚えていず
惜しかったことしか覚えていない

すばらしい本だったことしか覚えて
いないあの本、そして
涙とともに思い出す
父のこと、母のこと、弟と妹を。

酔いて

酔いて中国の詩を読む
一月の午後
机上に酒瓶
書架に詩篇
キリストにつきて
聖なる書によりもしばし
酔いよ醒めよ
会衆に集い
主を賛美しまつらん。

二月の初めに

朝には雪がふる
神を語る手紙書き終えて
母の出す手紙とともに携え
長靴をはきて、傘をさし
雪はげしくふり
歩む舗装道路
百四十二円切手貼り
post office出でぬ
書店に入りて
六百四十円、文庫本詩集2冊求めけり
堀口大学訳・ヴェルレーヌ詩集
コクトー詩集
丁寧なる書店の主人のあいさつ
雪の中、家路をたどる
雪ふるはしばし、詩を読むもしばし
十時二五分、ストーブの音しきり
今日は月曜日、わが休日の日なり。

コクトーとランボー

詩とは地面にポッカリと空いた
くぼみに たまった みずたまり
なんでもとかす みずたまり
じつと のぞいてごらん
五色の水に、メダカがすいすい
泳いでいるよ
貴方の顔が 大きい空とともに映って
泣いているよ 笑っているよ
なんでもあるよ そのなかに
つまらない 水たまりだけど
のぞいてごらん
幼子になった わたしが 
じっとながめてます
五千年も六千年も そうしているのです
コクトーとランボーは教えてくれました
そのはてに神は宇宙を造られたのです
男はくさっていませんが
女はくさっているのです
互いにそう考えているのでしょう。

くつ下

力がくつ下をもらった
吉村姉妹の心づくしで
自動車で訪ねてくださって
善良な姉妹は
私のことまで心配してくださった
白いくつ下は
力の手の中でつつましく
きちんと収まっていた
吉村姉妹よ幸せに!



ラテン、ギリシャ、ヘブライ
わが友マキアベリ
量子力学
短歌研究と言語
中国名詩選
音声学
ゴクミ語録
サラダ記念日
図書
宮本輝
万葉集
宇宙論
異邦人
わが学びつつある本。


玩具の馬

本立ての上に、玩具の馬が
お金がなくて、これしか
息子に買ってやれなかった
子はもっと大きいのをほしがった
これでがまんするのだよ
うなずいて、この馬を手にして
すこしうれしそうに
売り場を離れていった父と子
息子は大きくなって中学に入った
この玩具の馬を見ると悲しい。

蛙ヶ川

細い流れの川は蛙ヶ川である
僕が一人麦茶を飲んでいる
真ん中を ひょうきんな蛙が
流るに流れて もう寒い
十一月半ば
僕の真ん中を 蛙ヶ川が流れている
赤い川が 流れているのでもなく
真っ白な水が スヤスヤと眠っている
妻と僕の真ん中を流れていた?午後十時半
今日は日曜、集会の日、
息子は競技会に出た。(11・14・19
94)

秋成の家

真昼も暗い森の中
しおたれて歩む、唯我一人
斧をたばさみて
木を倒さんとてか、蛮人と戦わんとてか
なおも奥へと進みゆく
道なき道のつきるところ
見上げれば広壮な屋敷あり
案内こえば、女一人出でくる

広き屋敷に座りたれば
真中に湯のいらだちたる湯釜あり
カタゝゝと蓋は音を立てて煮えいたり
女はしずかにひしゃくに湯を汲みて
茶をたて、すすめたり、こは
よき茶ぞとほむれば
女微笑みて、つと口に手をあつ

緑の外は春なれば
つゝじは咲きてみだれいたり
うらゝゝと照れる陽の光
我知らず、うとゝゝしたるはしばし
気づけば、はや女は居らず家もなし
暗き森の中、巨木の根方
我一人寝ねいたりけり。

脳病院の庭

ゴッホの描いたサン・レミー・ポール病院
高い塀の中の庭
外に誰も訪れる者もないこの庭には
時折病人が庭に出ることを許されて
鉄格子の感触を体からはずし
自然の色と臭いとささやかな自由を吸う
これらの木々は植わってから幾年にもなり
 此処に棲む、これらの木々これらの草は
 塀の向うの仲間とは違うのだ
 木の葉の色、花の彩
 それらは何故かくすんで
 病人たちの魂を吸って
 ゆらゆらと淋しい自然を創っている。          

公営屠殺業者

君らは知らないだろうが
私達の国には、たえず屠殺業者がいて
ふとした寒い日などに家を訪れる
トン・トン・トンとノックの音を聞けば
それが屠殺人なのだ
戸を開けば、白い長い手術衣を着た
彼ら二人が、つかつかと屋内にふみ込んでくる
屠殺業は公営なのだから
黙りこくって問いには答えない
しかも殺し屋と違って
いきなり、あの世へ送り込みはしない
必ず大きい黒カバンを手に持っていて
まずは一緒に来いと言う
いやだと言えば、大かい注射器を取り出して
目前でごついアンプルをカットする
液体はシュシュシュと泡を吹き
チューと注射器に吸い込まれ
その時には、私達は死を喜びつつも
瞬間だけを恐怖する
競馬馬のように安楽死させてくれるのだ
だから諸君はこの如き屠殺業者を憎むべきでない
直前には一言ぐらいやさしい言葉を言うものだ
私達に憎しみを持っているわけではないのだから
不必要な人間を消す仕事を
彼らはもう何年となくやっているのだから
わたしも今あの夜から、この現実を公にしているのだが
至高よりも絶望のほうが変わり者には
アッピールするものなのだよ。


午後よりの外出

玄関にそろえられた黒靴に、足を入れようとすれば、小さな金魚が跳ね出でて、悲鳴を上げる
自転車で書物を買いに出る
足をのばし,未だ訪れしことなき美術書店に入れば、モナリザを売っている
値は一万五千、お買いになりますればということ
海中は二千もなく、三十円のめいが模写を沢山買う
選ぶには冷や汗を流してみじかい長時間を費やす
偽名画をかかえ、とある大学構内を走れば
過去の夫人に出会う
俺は彼女とデパートをぐるぐるめぐり
お買い物の最中
はては主人留守宅に誘われ
うろたえて逃ぐるもおかし
夫人は晩餐の準備中
俺は窓から逃げ出す
どうもそうらしいのだ。
(以上三つの詩、20代のときのもの)

数日の去就

オーム貝に似し女子
夏の終わりの市場に見し
クロワッサンを齧る午後
クロゼミかしましく
日は暮れて読書する空に
時は過ぎて眠る頃
向うの部屋にランプほのあかし
ものうく聖書を閉じる
「わが友マキアベリ」
読まないかとすすめらる
「法の精神」今朝読了
ツキジデス読みつぐ
宇宙の閉じるのを見たという
幻の声
何も言わず頷く友
猫になりたしとつぶやくとも
昼の砂浜のベンチの白猫

秋の深き夜 この可惜夜
ランプの下の広辞苑
詩を書く男なんてという妻
十時を廻る寝ねむや。

十六歳にして

十六歳の秋、パチンコ屋の
「上海帰りのリル」
不良少年、何も知らなかった
行く末の期待なく
安手の実存
不安で淋しい
十六歳
恋人がいたら
言い出す勇気なく
ニキビだが白い顔
で時折赤面する
言葉は神であった。

oh Fagus a nice fellow.

今夜も映画の登場人物を好きになった
おばさんのくれた千円の寄付
500円息子にやって
2本の缶ビールを呑む
Oh Fagus a nice fellow.



歌手

一軒の家
小高き丘に立つ
娘の口ずさむ
シャンソン
詩人の魂
流れる歌声
ドミノ、ドミノ
人ありて、人ありて
歴史の陰に
漂いて流れゆく
森と湖のそば
浮き草の人生
人知れず流れゆく。

湖辺

さすらいの
水鳥ら、神養いたまう
雨続き、小川の水豊か
葦は枯れて
木々に葉もなく
人影少なき
湖辺に座す。

一遍の詩

一遍の詩を捜して
遠く、遥かなる思い出の地に
行きたり
賑やかなる街路
ひとは
ざわめく
行くてに不安在り
されど吾は一遍の詩を
尋ねあるけり
本の山は高く
万巻の書は埋まる
其の詩、やっとのこと
めぐり会えり
心は躍る
懐中をさぐれば
如何ほどもなく
再び埋もれたる書の山に
一遍の詩を戻し
悄然と街路を歩む
再びや何時の日に
彼の詩に会わむと
会わばひしと抱かん

吾今詩を朗ず
懐かしき衷心の喜びをもちて
なつかしき詩篇はわが手にあり
わが唇にあり
?ひばりに寄せて?
その題名なり。

哲学と恋

男は哲学をすべし
女は恋をすべし
男は哲学を語り
真顔で語る男を
恋すべし

男と女は互いにいくつも
恋をしたことを恥ずべし
わたしと貴女だけの真実
それが確かにあるのだと
信じて別れろ

そして、数年が過ぎ
出会ったら
あれ以来忘れていないことを
テーブルのコーヒーに
砂糖を二匙入れて・・・・・

ミルクはいいかいときけ
女はニッコリ笑ってうなずけ。






並木の午後

病院の待合の
白い服の看護婦さん
呼び出しを待つ
なんとなくソフィストな
彼女の姿

郵便局の角に立つ
ポーズの良い
ある娘
初冬の午後
着込んでいる
彼女の姿

並木道、車の走る
すれちがって
ふと匂う
なんとなくよい香り
去っていく彼女


サンダラボッチ教

とにかく有名な奴は入れない
中退とかぜんぜん通ってない
そんな者ばかり
守護神は?サンダラボッチ?
何だと思うそれ
俺も知らなくて、辞書引いてみたら
俵だって
どこともご神体はそんなの
石だとか玉だとか木切れなど
ありがたいありがたいと手を合わす
人間様なのに、狸だとか犬だとか
この宗教、教祖様が炭屋をしていたとか
スミヤキストなんてものもあるよ
サンダラボッチだって有難いんだよ
つまりフリーメーソンだってね
「戦争と平和」のピーターも関係してた
世界征服を企ててるってけど
べつに一応目標てとこ
明日は家内と、サンダラボッチ旅行に行く
無目的旅行さ
本とペンとノート
金?そりゃ少しはね
キリスト教だって金なけりゃね
クリスマスが近づいて
何時サンダラボッチの旗揚げかねて
訊かれることも
昔からあるのですよ
君知らなかった
ビールを一口呑んで続ける
あんみつパフェ五〇四円は
四五三円に値下げ
初めからそうかいとけば
ビールあと二口ぐらい
もう一本どうかて
心臓悪くて控えねば
来る道さんざん考えたのが
サンダラボッチ
帰ってパソコンに入力
これ詩なんですよ
初めから知ってたって
そりゃそうなんだけど
おわり
サンダラボッチ教
快散!

この詩集をとず。(2004・12・22・水曜午後8時20分前)

         年齢 69
         職業 キリスト教伝道
    




自由詩 詩集・人生の最中に Copyright 生田 稔 2007-04-11 14:46:24
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