駆け巡る悲しみの果てに
アマル・シャタカ

人は己の踏み締めた足跡に人生を見る
しかし踏み潰したものを見ることはない
見つめれば脚を踏み出せず
歩を進めれば踏み潰さざるを得ない
人が脚を持ちそれがまた
踏みにじる罪深さから逃れられない宿命ならば
何ゆえに瞳から涙を流すという作用を人が持つのか
ほんの少しわかるような気がする
流す涙は重力に引かれ地に落ちて
やがて誰かが踏みにじる
ならば宇宙における涙はどうか
踏みにじられることなく涙が浮かぶこの空間においてさえも
人は悲しみから逃れられることはない
なぜならば
涙は宇宙を漂えるけれども
人の心はまだ
地に惹かれたままだからだ

ある国では
愛ということを
「かなしい」と読んだ
悲しみの根に咲く花を愛と呼ぶなら
この果てしのない愚かな人の行く末に
せめて一輪
そうでなければ
私たちの流した涙の意味さえも
わからぬままに
散り逝く命を眺めるだけ
駆け巡る思いの果てに
宇宙(そら)で流され
地球(テラ)で流され
手折れば散り幻となっても
私は見つめる
悲しみの果てに咲く花のあることを


自由詩 駆け巡る悲しみの果てに Copyright アマル・シャタカ 2007-03-26 22:34:21
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