標識さん
ななひと
その標識は、私がひょいとしばらくの間滞在した町の交差点に立っている。
私はその標識を見て、はっきり言って当惑してしまった。体裁は普通の交通標識と同じなのだ。一方通行、とか、止まれ、とか、そういうたぐいの何の変哲もない標識である。しかし、その標識には、こう記されている。
×
↑
一体この標識は何を言おうとしているのか。私はとまどった。ここは見通しのいい交差点である。直進すると、まずいのか、と思ったが、前を覗いても、何ら危険そうなものはみえない。百メートルくらい標識を無視(?)して歩いてみた。何もない。何ら危険なことはなかった。私は標識のところまで戻る。じゃあこれは一体何を意味しているのか?もしかすると、前方に宝がある、そういうことなのか?しかし、ほっくり返そうにも道は舗装されており、両脇にはごく普通の建物が建っており、とても掘ることができるようなところはない。私はうなってしまった。
普通の人なら、ここで、「この標識には意味がない」と考えて無視してしまうかもしれない。実際、私がいろいろ悩んでいる間、町の人が何人か行き来したが、彼らは全くその標識を意に介している様子はない。普通の生活にとけ込んでいる。
旅の人である私は、そうはいかない。この標識の謎を解かなければ。。おおそうじゃ、この標識を立てた人に聞いてみよう。私は町役場に行くことにした。「すいません、変な標識があるんですけど…」すると町役場の人はちょっと眉をつりあげて、こう言った。「ああ、あの標識ね。よく聞かれるんだけれども、あれは町が立てたんじゃないですよ。あそこは私有地でね。そこの所有者が立てた看板なんで、我々にもわからんのです」。あれは標識ではない。看板だと。看板だとしても、何のためにあんな看板を…。私はさらに追求してみた。「看板だとしても、あんな標識めいた看板を立てることになんの意味があるんですか?」町役場の人は肩をすくめて言った。「さあ、立てた人はね。もう死んじゃってるんです。私有地ですからね。我々にはどうすることもできません。」
そうなのか。誰かその看板を立てた人がいる。しかしその人はもう死んでしまっている。それじゃあ誰にも意味がわからないはずだ。しかしあんな看板を立てるのは、どういうつもりなのか。立てた人は死んでしまっているとしても、何らかの意図があってあの看板(標識)を立てたはずだ。…しかし、私有地ということは、仮にその人が死んでしまっているとしても、今も所有者がいるはずだ。今の所有者は誰ですか?と聞くと教えてくれた。ここまで来たら、その所有者に尋ねてみるしかない。
「あの標識はね、生きているんですよ」
はあ?と私は思った。これはその土地の所有者が真っ先に言った言葉だ。「標識」が「生きている」とは何ぞや。標識は標識でしょう。鉄のかたまりでしょう。生きているはずがない。私は思った。
「いや、あの標識はね。やっぱり誤解をまねくし、何の意味もないから、一度撤去しようとしたんですよ。しかし、撤去しようとすると、撤去しようとした人が突然謎の痙攣を始めて病院送りになってね。全くしゃべれなくなったんです。別の人もやろうとしましたが結果は同じです。あの標識を動かそうとすると、祟りがまっているんです。土地の人は一時期、「祟りの標識」と呼びました。しかし、触らない限りは何の悪いこともしないから、放置しているんです。今ではここらへんの人はあの標識を「標識さん」と呼んでいます。「標識さん」のおかげでこの町が繁盛しているんだ、という人もいるくらいです」
「標識さん」…「標識さん」は全く「標識」としては意味がないことがわかった。無視してよろしい。しかし、「標識さん」は陰でこの町を守っている(らしい)。少なくともこの町の人はそう思っている。
さて、私は改めて「標識さん」を眺めてみた。
×
↑
写真を載せたいくらいだが、そんな畏れ多いことをすると私も「標識さん」の祟りに合うかと思って、やめた。その代わりに私は標識さんの前で、ぽんぽんと手を合わせて、拝んでみた。
この文書は以下の文書グループに登録されています。
詩・詩人・読者・評価・創作