すべての言語は理解不能である。
ななひと
「わかる」ということについて考察してみよう。人は本当に言語を理解しているのだろうか?こういうことを言うと、何を言っているのか、と思われるかもしれない。しかし、結論から言うと、極言すれば、人は、言語を理解していないのである。
相手に言語が通じるかどうかについては柄谷行人大先生が考察しておられるから、不用意なことは言えないが、言った本人の言うことが、そのまま、相手に理解されるかは、本人にはわからない。なぜなら本人は相手ではないからだ(当たり前だ)
おいおい、相手は「あなたの言うことはわかったよ」と言えば、通じてることになるじゃないか、とおっしゃる方もおられるかもしれない。しかし、それは、本当に相手がその人の言葉を理解していることを保証しないのである。なぜなら人が言いたいことは、「言語」として相手に提供される。相手はその「言語」を、相手の「言語」で理解する。その上で、その人の言ったことを自分の「言語」の上では「わかった」と相手に表明するのである。
さて、ここで、本人の「言語」と、相手の「言語」の間には、本質的には何ら接点がないことを確認しておこう。もちろん同じ「ニッポンジン」であるから(?)「ニホンゴ」を身につけてはいるだろう(?)。公共教育によって、ある程度私たちは「共通」と思われる言語を習得させられている。しかし、それだけで、一人一人が、全く同じ(ここで言う「同じ」は、厳密に言って全く「同じ」でなければならない)言語を習得するわけではない。それならば「議論」や「意見」交換は全く必要なくなるであろう。一人一人は、「ニホンゴ」と名前がついているが、異なる言語を身につけているのである。だから、「あなたの言うことはわかったよ」という言質は、「受信完了しました」というサインを相手に送っているに過ぎないのである。相手がその受信メッセージをどのように「理解」しているか確認するすべはない。もちろん「じゃあどのように理解しましたか?」という質問をすることによって、相手から返事が返ってくれば、相手がどのような意味でその文章を理解したかが、わかってくる…ちょっと待って欲しい。今までは相手のことばかり書いてきたが、相手の返事を理解しようとしている「私」は正確に相手の言うことを理解できるのだろうか?先述したように、そのようなことはあり得ない。確かに相手から「私はあなたの文章を〜という風に理解しました」というメッセージがやってくる。しかし、私は、相手の言語を借りてきて、それを理解する訳ではない。私の言語は交換不能であるから、相手が私の言語を理解したというその言語を、私の言語で理解することになる(ややこしい…)。そうすると、私は、相手の言語をそのままの形で理解することは原理上不可能である。
「言葉を交わし合えば理解が深まる」というようないい方がある。しかし、上述の理論を適用すれば事態は逆である。言葉を交わし合えばあうほど、理解は不能になる。
しかし、私はすこし理論的に考えすぎて、現実から遊離してしまったようだ。実際はそんなことはない(と思っている)。しかしながら、二者間における「理解」とは、多分に他者に対する「幻想」に基づいていることは理解しておかなければならない。楽しそうに意見を交わし合っている二者の間にあるのは、「相互理解」ではなく、「自己満足のすれ違い」や「皮肉の応酬」であることはよくある。
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