吾輩は病人である。病名はまだない。
ななひと

吾輩は病人である。病名はまだない。名前のわかる病気はまだ簡単だ。誤解して頂かないで頂きたい。どんな病気もつらい。病気に優劣はない。病気の人のつらさを考えていないわけではない。そんな私も名前のある病気をいくつか持っている。まずは「糖尿病」。非常に嫌な響きの病気だ。糖尿病というと、若い頃の生活習慣が悪かった報いだと連想され、見下される。しかし私はまだ若い。三十代はじめから糖尿病だ。糖尿病にもI種、?種があって、一般にI種は先天的に糖尿病で、生活習慣とは関係がないと言われている。太ったおじさんがかかる病気というイメージがあるのは?種である。これは若い頃の暴飲暴食、ストレス、遺伝などの様々な要因で起こると言われている。で、糖尿病患者は?種と?種でケンカをする。要するに、?種患者は、「私たちは先天的に糖尿病で、何ら悪い生活をしてきて糖尿病になったわけではないから、?種と一緒にしないでほしい」と言うのである。?種患者はそうした?種患者を羨望しつつも、?種患者の高慢さに腹を立てている。しかし、実際そういう区別も実はあいまいで、グレーな人たちが存在する。私はギリギリ?種で、人から見れば?種である。医者は「うーん、?種じゃないかなぁ。若いもんね」と適当なことを言う。だから私も?種患者に憧れ、?種のつもりをする。まるで左翼同士のケンカのようである。
もう一つはもっとずっと前からかかっている病気である。その名は「うつ病」。「うつ病」も発見されるまでは名前のない病気として、私を苦しめた。とにかく怠い。一日中寝ている。寝ても寝ても眠い。起きてもすぐ疲れる。仕事が適当になる。人への配慮がなくなる。人から疎んじられているのに気づかない。気づかないのに人間関係に疲れていると自分で思いこむ。前に付き合っていた彼女の最後の言葉は、「あんた病院行った方がいいんじゃないの」だった。うつ病患者は皮肉を理解しない。私は素直に病院に行った。そこでうつ病とわかった。わかってみるといろいろなことに合点がいった。何故そんなに今まで無駄なことで無限ループで悩んでいたのか不思議になった。病院の先生は三環系(古典的な)の抗うつ剤と、SSRIの中でも当時新しく認可されたパキシルという薬をくれた。一週間後、身体に電気が走ったように私はよみがえった、気がした。太陽を見るだけでうれしくなった。治った、と思った。
しかしうつ病はそんなに簡単ではなかった。もう一週間すると、薬はすぐに効かなくなった。効かなくなると、今度は毎週のように医者に通った。薬が欲しかった。薬が効いたときの、あの、爽やかな感じをもう一度味わいたかった。そうして様々な薬を試した。そのうち私は薬に興味を抱くようになり、薬の勉強を始めた。日本は発明された薬をなかなか認可しない。なぜなら安全性が保証できないと困るからだ。かといって人体実験をするわけにもいかない。海外には様々な薬があることを知り、いろいろ輸入しては飲んでみた。効いた薬もあったし、効かない薬もあった。しかし、はまってしまうと泥沼である。うつ病患者は一度決めると絶対にやめない。自宅にタイや香港から様々なあやしげな郵便物が届くようになった。親と同居していたが、関係は最悪であった。うつ病患者はおそらくみなそうだろうが、周りの人に理解されない。怠けていると思われる。しかしなにやら行動すると、親が「動けるんじゃない」と言う。すると自分では自由に動けないと思っているから、いらいらする。いらいらすると、親もいらいらする。親としては働き盛りの年齢の息子が一日中部屋に閉じこもって寝たり起きたりだらだらしているのを見るのはつらいだろう。関係がこじれる。
かなりアブナイ薬もやった。その薬を飲むと(正確に言うと鼻から吸飲するのだが)、逆に躁状態になって、行動的になり、リバウンドして逆に何もしていない自分にイライラして、あれこれ手を出し、結局何もできずに、薬が切れると禁断症状に陥って、処方された一週間分を一日で使い切ってしまう。薬がなくなるとパニックである。薬事法で薬の国内での売買は禁止されているから、別ルートで手に入れることもできない。かなりやぱい薬で、しかも日本政府が認可しているから、海外から輸入しようとしても、税関でひっかかる。するとうつ病患者は薬を手に入れるために、嘘をつきはじめる。薬をなくした、とか、車で事故って薬がつぶれた、とか言い出して、なんとか薬を手に入れようとするのである。さすがに医者も、これは中毒だと気づく。そして一切薬を出さない。その代わりに睡眠薬を出す。とにかく寝ろと。今になってみれば、そういう医者の対応は正しかったと思うが、そのときは薬がほしくて仕方がない。医者を恨みながらぶるぶる震える。完全にジャンキーである。
だいぶん経って、「うつ病は治すもんじゃない、つきあうもんだ」という心境に至った。コントロールして、なんとかして、生きていくしかない。
そして今、第三の病気にかかっている。このいい方は正確ではない。その病気には名前がないからだ。去年の七月頃から背中が急に痛くなるようになった。しかしそのときには単なる疲労か何かかと思ってすませていた。彼女が阿部サダヲのファンで、しかし一人で東京に行けないからと言って、ナビとしてついていったときも自分が病気であるという自覚はなかった。しかし多摩で行われた大人計画(劇団です)フェスティバル。炎天下の小学校跡地で、ステージやら催し物をやるという企画ですが、その間これはだめだと思った。倒れそうになって、彼女にはフェスティバルに参加して貰って、自分は多摩市の公共施設のホールで一日中寝ていた。はっきり言ってただの浮浪者である。その頃から体調が急変、背中に激痛が走るようになった。そして血尿。これはやばいと思い病院に行く。血尿が出るということで、結石の可能性を疑われ、泌尿器科へ。すると、造影剤を入れてレントゲン、CTを取られ、「結石の跡があります」と言われることになる。「跡」ということはもう石は出たはずだ。確かにその後数日楽になった。しかし、ほぼ一週間後、再び激痛が走る。もう一度レントゲン、CTを取る。何も見つからない。血尿は止まる。しかし痛みは止まらない。痛くて痛くてたまらない。これはもう「痛み」という言葉では表現できないくらい痛い。萩原朔太郎の哀れな「狂水病者」の心境だ。とにかく「痛い、痛い」と言い続けるが、わかってもらえない。医者は異常はないという。他の医者にかかる。やはり異常はない。椎間板ヘルニアの疑いをかけられ、整形外科でMRIを撮るが異常なし。神経内科で神経障害を検査するが異常なし。精神科で、「これはうつのヴァリエーションかもしれない」という仮説を立てられ、メジャートランキライザーを処方される。遂に統合失調症の仲間入りか、と思いつつメジャートランキライザーを飲む。少し楽になる。しかし時間が経つとまた痛くなる。今や薬のオンパレード。内科でインシュリンと、「神経の障害による筋肉の萎縮をとどめる薬」と鎮痛剤、筋肉を和らげる経皮鎮痛消炎テープを貰い、精神科でメジャー、マイナートランキライザーと睡眠薬を貰う。しかし完全に痛みのない時間はない。どこかが必ず痛んでいる。
彼女に「あと15年くらい生きるとして、これから就職を探しても無駄だよねえ」と言ったら、「15年?10年も無理でしょ」と言われた。彼女の予言能力はものすごいので、私は10年以内に痛みながら名前のない病気をかかえながら死ぬだろう。


散文(批評随筆小説等) 吾輩は病人である。病名はまだない。 Copyright ななひと 2007-03-20 23:44:10
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