「正しさ」についてのある思い出
熊髭b
自分の言っていることが「正しい」という言葉には気をつけよう。
「正しさ」は必要だ。矛盾しているだろうか。
誤解のないように慎重に言葉を選ぼう。
「正しさ」を希求するための言葉のやり取りは必要だ。
その結果、「正しさ」は副次的な目的となる。
だからこそ「正しさ」をはじめから標榜してはいけない。
わかりにくいだろうか。
一方で
「それぞれの人がそれぞれの世界観を持っているのでいいじゃないですか」
「それぞれが正しいのです」
こういう意見も最近はよく目にすることだが
これを人は無関心と呼ぶ。
自分の主張することの姿勢を問うたときに
ためらい、や、恥じらい、躊躇
が微塵も感じられない言葉に出会うとき(自省も含んで)
俺は、「正しさ」という奴を呪いたくもなる。
「正しさ」の落とし穴から無傷であることは非常に難しい。
この「正しさ」に対する自覚が、言葉の慎重さをうながす第一歩となる。
信頼関係がない言葉は、ただの暴力となり
信頼関係を履き違えた言葉は、無関心の裏返しとなる。
信頼関係の構築には、摩擦を伴う。
摩擦を恐れてはいけないが、
摩擦を増幅するだけのやり取りならば
沈黙を得るほうがいい。
沈黙知の領域を知ることも必要だ。
俺は実のところ
自信なさげで、でも、最後まであきらめない人の前に出ると
自分自身を省みて、
自分自身が恥ずかしくなる。
自信がないことと謙虚ということは違う。
自分を他者に対して謙ることを謙虚というのならば
自信のないこととは、
他者以前の問題として、「定義」に対する認識の疑問を常に伴う。
(本来そこにこそ他者性の問題が隠されている)
しかしその隙間からこぼれおちる言葉を丁寧に紡いでゆく。
すなわち詩の第一義はここに立ち現れる。
なぜ、自分はこんなにも明確に言葉を投げかけられるのか。
いつから言葉の輪郭に対する決定権を
全能の神のように自己決定するようになってしまったのか。
恩師、哲学者の原章二先生は、
「きみの言うことはこうかもしれないね、いやぼくの解釈が違うかな
こういうことなのかな?いや、こういう風にも受け取れるなあ、
ぼくはこういう解釈だったらこう思うし、こっちの解釈だったらこうだなあ」
とあらゆる可能性に関して並列的な言葉遣いを検証されるひとだった。
そして、言葉は無限に続いていき
解釈の「正しさ」は、遠くに退いていく。
この体験を何と名づけよう。
学生当時の俺は、
話の要領を得ない人だなあ、
もっと明確に言ってくれればいいのに
と思っていたが、今になって思えば
先生の哲学的実践が言葉に現れていたように思える。
そして先生は、大学の体制に対して
最後まで戦い抜いた数少ない教授でもあった。
ためらいながら、躊躇しながらも言葉を紡ぎ続けるひとは
弱々しくも、最後まで言葉をあきらめない人でもあった。