自分は見た
んなこたーない

 目を覚ますと、ぼくは全裸で浴槽に横たわっていた。身震いするほど寒かった。ぼんやりした頭で浴室を見回すと、急にそこが見覚えのない場所であることに気がついた。無理な体勢で寝ていたせいか、起き上がると身体の節々が痛んだ。
 服は脱衣所のかごに丸められてあった。酔っ払って服の上から吐き散らかしたに違いなかった。汚れた服を着る不快感には耐え難いものがあった。ポケットを確認すると昨夜の状態のままで、なくしたり盗まれたりしたものは特にないようだった。
 身支度を済ませると、次の行動を決断するのに少しの間躊躇した。時刻は午前十時を少し過ぎたところだった。
 廊下に出ると、すぐ左手に玄関があった。そこにぼくの靴も脱ぎ捨ててあった。あたりに人の気配は感じられなかった。ここでも一瞬ためらったが、足音を忍ばせてそのまま部屋を出た。
 マンションの玄関を出ると、とりあえずでたらめに歩き出した。すれ違った人にここがどこで駅前に出るにはどうすればいいのか尋ねようと思った。しかし気が緩んだせいか、徐々にまともに歩くことすら出来なくなってきた。電信柱に凭れかかって嗚咽をくり返していると、頭の中に次々と疑問が浮かんできた。その脈略のなさは余計にぼくを疲弊させた。そして結局ぼくは、その疑問のどれひとつとして満足のゆく解答を与えることが出来なかった。ふいに「ぼくは迷路の住人である」というフレーズが思い浮かんできて、それがとても気に入った。

 求人広告に目を通すだけでも、あとには重苦しい疲労感が残った。それが済むと特にすることもなく、部屋でじっとしているほかに仕様がなかった。思い出したようにハート・クレインの詩の翻訳を始めたりもしたが、それも長くは続かなかった。ぼくは彼の詩の翻訳を「余業のすさび」と規定していた。
 しばらく壁の一点を凝視していると、ぼくは自分が仕事を見つけようとする意欲を完全に失ってしまっていることに気がついた。それは採用通知を手にしたのと同じくらいに確定的であるよう思われた。

 失業保険申請の手続きのためには一度職安へ行く必要があった。
 プラットホームで電車を待っていると、見知らぬ女性に肩を叩かれた。振り返ると、女はどうぞと言ってポケットティッシュをさし出してきた。
 「えっ」
 「使ってください」
 「何のつもりですか」
 「えっ。だって、鼻血が出ているじゃないですか」
 言われてはじめてぼくはそのことに気がついた。そそくさとポケットティッシュを受け取り、鼻を押さえた。女は満足そうな笑みを浮かべると、ぼくから少し距離をとった位置に移動して、それからあとは何事もなかったかのようにあらぬ方向ばかりを眺めていた。ぼくは自分がまったくの被害者であると感じた。自分の内部のもつれた感情のすべてが女の責任にあるような気がした。

 ぼくはあらゆる美徳を拒絶する。それを唯一の美徳にしようと思う。
 現代では、金というものは必ず悪と密接に結びついている。悪とは人間的な行為なのである。悪に参加するのならば、そのなかでもより主導的な立場を目指すべきである。それだけが態度として唯一潔癖なものであり、それ以外はみな不潔で非人間的でさえあるよう思われる。もしも悪そのものが根絶されるとしたならば、そのときぼくは聖職者であり、詩人であり、殺意なき殺人者であり、同時に「迷路の住人」である資格を失うだろう。

 電車を降りると、まっすぐ便所へ向かった。顔と手を洗い、こびりついていた血を綺麗に落とした。その便所ではスーツ姿の男が一人、便器に頭を突っ込んで蹲っていた。ぼくは男が死んでいるものと錯覚した。
 「そんな所で死ぬなんて面白くないだろう」
 すると男は便器の中から、意外にも健康そうな声で答えた。
 「いいや、死なないから面白くないんです」
 ぼくはこの男がフランク・ザッパのような顔をしているに違いないと思った。それはまったくの直観で、なぜそう思ったのかは自分自身でも分からなかった。そもそもぼくはフランク・ザッパの顔をうっすらとしか思い浮かべることが出来なかった。ぼくが便所を後にするときも、男は身じろぎひとつしなかった。

 全裸にした後で、ピンクのストッキングだけ履くよう要求した。女はぼくに名前を言ったが、ぼくはそれを否定した。
 「あのね、実はきみの本当の名前はリッキーというんだ。リッキー・ティッキー・タビー。ね、思い出しただろう? そう、ぼくの名前はリップ・ヴァン・ウィンクル。ぼくらは共に時間旅行の物語に生きているんだ。六十分八千円の風俗店。偶然にもぼくらはその寂れた場末の一室で交差して、それからまたそれぞれ孤独な時間の牢獄のなかへと帰ってゆくんだ。でもね、それは決して悲しいことなんかじゃないんだ。ぼくらにとって空間とは、レシプロエンジンのようなものにすぎないんだからね。ぼくの言っている意味がわかるだろう?」
 女はぼくが気が触れていると思ったに違いないが、話の間じゅうずっと興味深そうな態度を示していた。それも女の仕事のひとつらしかった。
 一通り話し終えると、ぼくは上着のポケットから紙切れを取り出し、女に手渡した。それはぼくが自作した詩の断片で、とても稚拙でとても猥褻な内容のものだった。ぼくは女に朗読するよう指示をした。
 女は数行ほど読むと、おもむろに顔を上げ「こういうのが好きなんだ?」と聞いてきた。ぼくが何とも答えず、まじめな顔をしているのを見ると、女は気まずそうにまた最初から朗読をやり直した。それはまったくぼくの趣味ではなく、当然何ら興奮することもなかった。場にいささかしらけた空気が流れた。
 「われわれの世代がもっとも尊重する人間の特質とは何か。それは何事にも熱中しないということ、そして何ら才能を持たないということだ。これは実際、脅威的なことなんだよ。この現状を打破するためには軍隊的教育の徹底が必要不可欠なんだ。最高度の知性は深い憂愁を暗示する。すなわち、ぼくはきみを認めない。そうだ、ぼくは断固としてきみのことを認めない!」

 呼び鈴が鳴って目が覚めた。午後三時二十八分。覗き穴から覗くと、向こう側から覗き返された。
 ドアを開けると、恰幅のいい中年の紳士が立っていた。
 「御用は?」と彼は言った。
 「御用は?」
 「ああ、もしかしてきみもか」と言って、彼は小さな溜息をついた。
 「きみを入れて今日だけでもう五人だよ。ねぇきみ、たしかにわたしは預言者としての自分の輝かしい実績には誇りを感じているよ。しかしわたしは教祖に祀り上げられるつもりはないし、どんな形であれ団体と名のつくようなものに係わり合いになるつもりもないんだ。これはわたしの信念であり、過去においてもわたしはそれをずっと守ってきた。その点については、記者にも強く念を押しておいたはずなんだがね。きみもあの記事を読んだんだろう? だがね、せっかくだからきみにも言っておくが、預言とは実行されるしかないものなんだよ、ねえ。救済についてわたしに助けを求めて来ても、それは無駄なことだ。間違いなくきみたちは地獄の責苦に焼き尽くされることになるだろう。しかしそれはきみたちの運命であり、あらかじめ決定済みの事柄なのだ」
 そして彼はポケットから板チョコを取り出すと、猛烈な速さで食べ始めた。
 「ああ、ぼくの目の前で、そんな風にチョコレートを食べるのはやめてください。虫歯が疼いてくるんです」
 彼はほくそ笑みながら「それも決定済みの事柄だ」と言った。

 客席の顔は、どれもみな例のごとく意味ありげな表情の仮面でその下の退屈を覆い隠していた。咳をする。足を踏み鳴らす。プログラムを開く。プログラムを閉じる。男が女を、女が男を品定めする。音楽が始まる前には何も考えてはいけない。彼らはそれを知悉しているに違いなかった。
 ピアニストが舞台に現れると同時に、強烈な沈黙が場内を支配した。極度の緊張感が伝播して広がってゆく様がはっきりわかった。しかしピアニストはピアノの前に腰掛けたまま、いつまで経っても弾き始めようとしなかった。無音状態が長引くにつれ、ぼくの神経は過敏になり、やがて内部から激しい憎悪が沸き上がってくるのを感じた。ぼくは眼を閉じて冷静になるよう自分に言い聞かせた。ぼくの頭蓋骨のなかでは、高層ビル街の遥か上空から一台のグランドピアノがスローモーションで落下している。落下地点で誰かが手袋をはめている。いよいよ衝突という瞬間に、あわててぼくは目を見開いた。それでも音楽は始まらなかった。
 舞台の一番高い場所に立ち、両手にシンバルを抱えたぼくは殺戮の秒読みを開始させた。

 ぼくがカメラのファインダーを覗くと、やはりカメラのファインダー越しにこちらを眺めているらしい彼の姿が目に映った。
 「預言者としてわたしが抱え込まざるをえなかった不幸というのは、人間という存在の根本的なところに根拠があるんだ。つまり、いやしくもきみが人間である以上は、やはりきみもわたしと同じように不幸な目に陥らざるをえないというわけなのだ」
 「それもあらかじめ決定済みなんですね」
 「ああ、きみはまだ二十代半ばだろう。そんな風にシニカルを気取るのはやめてくれないか。そういうのを見ると、どうも虫歯が疼いてくるんだ」

 激昂した彼女は、手にしていた花束でぼくの頬を思いきり張りつけた。八方に花びらが散って、辺りは強い花粉のにおいでむせ返りそうな程だった。
 「結婚生活だって、それはそれで素晴らしいものなのよ。あなたには分からないんでしょうけれど」
 ぼくがナポレオンならどうだろう。
 「一番の理想は、そうね、やっぱり退屈しないってことね。会話がなくても落ち着いていられる。気まずい雰囲気にならずにすむ。そういった幸福な関係は運命がわたしたちにあらかじめ与えてくれるわけではなくて、偶然に結びついた二人がお互いに努力して作り上げてゆくしかないものなのよ」
 いいえ、ぼくの前世はカメレオンだったんです。
 「嘲弄することは簡単よ。誰に対しても、何に対しても。もしも相手が真剣であれば、なおさらのことよ。でもそれって、最終的には自分自身を嘲弄することにしかならない。わたしはあのひとから学んだのは、そういったことなの」
 どうしてあなたはそんなに反社会的なことばかり言うのですか。

 全裸にした後で、ピンクのストッキングを頭から被るよう要求した。女は何か喋ったが、上手く聞き取ることが出来なかった。ぼくは女を無視して自作の詩を高らかに朗読し始めた。


散文(批評随筆小説等) 自分は見た Copyright んなこたーない 2007-03-16 07:04:25
notebook Home