聞かれないことに答えるひと
んなこたーない

今までに聞かれたことはもちろん、今後聞かれることもまずないだろうが、
もしも、好きな詩人は誰かと聞かれたら、ぼくは真っ先にハート・クレインと答えるだろう。
彼のような難解、というよりも下手糞な詩人に入れ込んでしまったのが運の尽きで、
というのも世の中に下手糞な詩人はなかなか存在しないのである。
「橋(The Bridge)」は彼が成し遂げた偉大なる失敗であり、
冗長で読み通すだけでもずいぶん骨が折れるのだが、それでも読むたびにぼくは何度でも戦慄してしまう。
彼に関する評論や研究は翻訳がほとんど進んでいないので、そちらに目を通すのもこれまた大変で、
もっと英語が堪能であったら、とよく思う。
学校教育から脱落してしまったぼくは当然英語などサッパリ分からない。これもまたぼくが抱え込んだ不運である。

思潮社から「現代詩文庫」というシリーズが出ている。
これのおかげでぼくもずいぶん日本の現代詩に触れることが出来た。
とはいっても、まだほんの十数冊程度を読んだにすぎない。
目録を見るとすでに200冊に到達しそうな勢いである。
現代詩人でプロと呼べるのは田村隆一、谷川俊太郎、吉増剛造の三人しかいないと吉本隆明は公言しているが、
好悪に関しては自分の目で判断を下したい、というのが普通一般の人間の心理である。
ぼくはいまのところ嵯峨信之の一点買いで勝負したい気分なのだが、どうだろうか。

ところで、この「現代詩文庫」のリストはどういう基準で選ばれたものなのだろうか。
ぼくはその辺の裏事情は知らないが、ただでさえ需要の少ない現代詩である。
ここから漏れた詩人は忘却の一途を辿るばかりではないのだろうか。
こういうことを考えはじめると、不安が募ってゆくばかりである。
はたしてレコードのように現代詩をディグることは可能なのだろうか。
あるいは古本屋街では茶飯であるのかもしれない。ぼくは編集者でも読書家でもないのでよく分からない。
ただ、ディグったところで、それがシーンの動向を左右したり、
オーバーグランドに吸収されたり、といった刺激剤になることはなさそうだ。
いまの詩の世界にシーンやオーバーグランド云々といった幸福な関係は存在しないからである。

なんでも詩の世界には賞がたくさんあるそうで、
しかも仲間内で選者と受賞者をかわりばんこにやるのが流行であるそうだ。
これもまた吉本隆明が言っていたことだが、もし本当の話だとしたらかなりの噴飯ものである。
ぼくは選者でも受賞者でもないので事実はよく分からない。
しかしこの世の中にそんなバカなことが起こりうるのだろうか。
いいや、バカなことばかり起こるのがこの世の中なのである。

世俗と絶縁することによって芸術の純粋性は守られる。そういう考え方がある。
だからこそ、芸術の世界に官僚主義が蔓延するようでは堪らない。
しかし官僚主義は純粋芸術の持病だと割り切った方がスッキリするのではないだろうか。
もしも、詩の健康体は何かと聞かれたら、それはファッショであるとぼくは答えるだろう。


散文(批評随筆小説等) 聞かれないことに答えるひと Copyright んなこたーない 2007-03-13 19:29:03
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