皮肉について
んなこたーない
なんでもレイモンド・チャンドラー「長いお別れ(ロング・グッドバイ)」が
村上春樹による新訳でこの度新たに出版されるらしい。
ぼくは村上春樹についてよく知らないのだが、話のついでにせっかくなのでひとつ指摘しておきたいのは、
「ノルウェイの森」の後半部で「ウェディングベル・ブルース」がバカラックの曲になっていたはずだが、
正しくはローラ・ニーロであるということだ。故意にそうしたのか、編集者も見落としたケアレスミスなのか、
その辺は判断しかねるが、ローラ・ニーロに熱狂的に入れこんだ一人として、少々気になる箇所であった。
ちなみにそれ以外にこの小説で覚えていることは全く皆無である、というのはひとえにぼくの記憶力のおかげである。
「長いお別れ(ロング・グッドバイ)」は数回読み返したことがあるので、
いくつかの場面は今でもありありと思い返すことが出来る。これもまたぼくの記憶力のおかげである。
ここで取り上げたいと思うのは、小説の冒頭部、
つまり主人公フィリップ・マーロウとテリー・レックスの出会いの場面におけるワンセンテンスである。
高級クラブの駐車場で泥酔したテリー・レックスをフィリップ・マーロウが介抱する所から物語は始まる。
するとその場に居合わせた駐車場係が、そんなマーロウにたいして「酔っ払いには関わるべきではない」という
自らの人生哲学を披露する。それを受けてマーロウはやり返す。
「そうやってここまでのし上がってきたわけだ」
「そうやってここまでのし上がってきたわけだ」
この皮肉はウェットに富んだ非常に上手いものである。
たった一言だが、切りかえしが出来ている。スッとした心持がする。湿っぽい後味を残さない。
皮肉は上手ければ上手いほど攻撃力が増すものなのである。
基本的に皮肉は優越感の立場であり、同時に自己主張の立場である。
ここにおいてアイロニーは、内的苦悩を共感によって引き受けるべきユーモアと趣を異にする。
外的矛盾の追及がアイロニーの本質なのである。
たとえば、ぼくの書き込みにたいして
「なーんにもわかっていない。自分が何を考えているか、何者であるかも自分でわかっていない」という。
あるいは「どこまでも可哀相な人ですね」という。
これらは切り返すことも出来ていなければ、文章としてもほとんど意味をなさない単語の羅列である。
当然、読まされた方は「?」を浮かべることしか出来ない。
あるいは、ここから彼の優越感や自己主張を斟酌し読み取ることによって、
いくらか腑に落ちる性質のものであるとしたなら、これほどヤッカイな文章はない。
ぼくが↑で言ったのはhalu氏のことなのだが、ぼくのことを小バカにしているのか、ハナから相手にしていないのか、
そのどちらでもないのか、イマイチよくは分からないのだが、
よしんば小バカにしているとしても、それはお互い様であるから特にその点に拘泥する必要はなさそうだ。
ただ皮肉におけるウェットの貧困さまでお互い様であるというのでは、なんともやり切れないものがある。
フィリップ・マーロウばりに、とまでは言わないが、このままではあまりに幼稚にすぎるのではないか。
一言でズバリと相手を黙らせられるような皮肉をすんなりと口にすることが出来るというのは、
ハードボイルド小説ではカッコいいが、実生活ではかなりイヤな奴である。
が、ネット上でわざわざハンドルネームまで使っているのである。
イヤな奴でも構わないではないか。
ウェットに富んだ皮肉を駆使できるとしたら、意外に愉快な気分になれるのではないか。
しかしどうしたらそんな技術をマスターできるのだろうか。
清水俊二訳の「長いお別れ(ロング・グッドバイ)」は、原文からかなりの文章や単語が
(おそらくは意図的に)削除されたものであるというのは、その筋ではとても有名な話らしい。
しかしぼくは面倒くさいので原文で読んだことも読む気もさらさらない。
今度の村上訳では完訳になっているそうなので、これを機会にフィリップ・マーロウの
あるいはレイモンド・チャンドラーの魅力をさらに再認識できたとしたら、
それこそ充実した読書体験ということになるであろう。