ひとそれぞれということ
んなこたーない

ひとそれぞれだという。十人十色だという。解釈はそのひとの自由だという。
それはそれできっと素晴らしいことなのであろう。
ただここで残念なのは、いくらそう声高に主張してみても、
どうやら世の中に類型的でない人間が存在しなさそうであるということだ。
とことん巨視的に眺めれば、世界の相貌はのっぺりしたものでしかない。
それならば、とことん細部の差異にまで目を向けるべきであろうか。
しかし人間の情報処理能力には限界があるので、一定量を越えた情報はノイズとしてしか認知できない。
ノイズもまたのっぺりとした相貌を持つ。
そういえば、ノイズ・ミュージックは聞くひとをしばしば眠りに誘う。
のっぺらぼうを前にして、ひとが覚醒を保つことは難しい。

ぼくは別段熱心な平等主義者ではないし、そもそも自由と平等は別物なのだから、
十人いればそこに序列をつけることは可能だと思う。常にプラグマティックに物事を考えたいのである。
たとえば正読という。あるいは反対に誤読という。そして十人十色ひとそれぞれだという。
しかしミステリー小説を最後のページから逆に読んでいくことは明らかにバカげている。
谷川俊太郎に百科事典から丸々引用しただけの詩があるが、
これが詩として成立するのは、あくまで詩として提出されたからであって、
ハナから百科事典を詩集として読むのも、やはり同じようにバカげている。
ハムレットが語り尽くされた後だからこそ、ローゼンクランツとギルデンスターンについて語る意義が生まれる。
これらは隙間産業であるから、隙間がなければ成立しない、あるいは成立してもかなり程度の低いものである。

「ひとそれぞれ」だからと言って、ダメなひとはやはりダメなのではないか。
そもそも本当に「ひとそれぞれ」と言えるほどにひとは明晰で個別的な頭脳を持ちえるのか。
人類の歴史はまた自然を克服してゆく過程でもあった。
何よりもぼくは自然を疑いたいのである。

普通の頭で考えれば、どのようなセンテンスも「I Think」が前提に書かれていることが分かるはずだ。
「I」にはそれぞれ固有の文化的・歴史的な特異性が背負わされている。
もちろん普通の頭でないひともいる。また、ひとつの記述であるセンテンスを
経済行為と結びつけるかどうかによっても、受け取る側でニュアンスは変わってくる。
そして現在を生きるわれわれは、まず第一に経済行為を優先させなければならぬ。

全肯定も全否定もある時には便利かつ有効な手段である。
しかしそれを駆使するとき、ひとは己の無能さに思い当たらざるをえないだろう。
このふたつは畢竟同じ所に落ち込むのであり、
こういった無能者の思考回路を広い意味での「ナショナリズム」であるとして注意を促したのは、
ぼくがファンである某イギリス作家であった。

無駄に人生を浪費しないためには、何事もほどほどで済ますことが肝要だ。
「ひとそれぞれ」もほどほどにしておかないと、不健康である。
もっとも、この人生で気晴らしだけが唯一われわれを慰めることが出来るとパスカルは言っている。
どのように気を晴らすかはそれこそ十人十色である。
幸福な気の晴らし方もあれば、逆に不幸なそれもある。
ぼくはといえば、できることなら少しでもバカを見ないように、というのが気晴らしにおける唯一の希望なのである。


散文(批評随筆小説等) ひとそれぞれということ Copyright んなこたーない 2007-03-05 01:05:15
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