右手の甲にそら豆
カンチェルスキス

  
 

 もうこうなりゃポカスカ日和だ
 立っていると
 足がくらげになってしまうほど
 あったかかった
 午後三時の図書館の屋上は
 どの午後より
 死んじゃってる、と
 おれはベンチから立ち上がると
 剪定された植木どもの向こうから
 警備員のおっさんが現れる
 おれからはだいぶ遠かった
 おーい、あんた、と言い終わる頃には
 おれのそばに立ち
 あんた、風呂上がりに牛乳飲むの似合いそうだね、と
 警備員のおっさんは顔を皺にして笑った

 いや、おれは彼女からのメールの返信を待ってるだけだよ、
 牛乳なんて飲んでないよ
 瓶、だね、あんたは、瓶の牛乳を飲んで、腰に手を当てて
 一気に飲み干す、そして、万感のゲップを放つ
 すごく似合いそうだ、わたしはその場合、
 背景は万里の長城がふさわしいと思うのだが
 あんたはどうだい?やっぱ新宿スタジオアルタ前のほうがいい?
 いやいや、さっきから言ってるだろ?おれは
 彼女からのメールの返信を待ってるんだよ、
 今日彼女、バイトで、どのシフトかわからんから
 もうそろそろ終わるかもって返信待ってんだよ
 牛乳のお代わりを待ってるのかい?今日何本飲んだ?
 牛乳のフタとかどう保存してある?残念だけどね、
 ここには牛乳は売ってないんだよ、屋上だからね、何なら
 わたしが買ってこようか?というか、わたしが
 牛乳出してみようか、ここで、頑張れば
 お乳ぐらいは出ると思うんだが頑張れば
 警備員のおっさんは地面に向けて
 胸をしぼって自分を励ました

 頑張れ頑張れ!わたし!
 やっぱ出なかったよ、ごめんな
 いや、いいよ、おれは彼女からのメールの返信を待ってるだけだし、
 あなたは乳牛でもないし、乳産業の人でもないし、
 どっちかって言うと、シチューなら赤のビーフ系の好きな人だろう、
 それに、どっからどう見ても、その制服とか見ると、
 おれの推測が間違ってないことを祈るけど、
 あなたが警備員だろうっておれはわかるよ
 しょんぼりするのはやめなよ、あんたは牛じゃないんだからさ
 警備員だから警備員でいいんだよ

 きちんと被られた制帽におっさんの生真面目さが
 表れてるんだけど、顔を上げたとき、プッと
 おならをした、気づかれてないと
 おっさんは思っただろうけど、おれは気づいていた

 不安なんだよ、わたしは、と顔をしかめる
 ん?誰が?誰のことだよ
 わたしだよ、身長173センチ、右投げ左打ちのわたしのことだよ
 ああ、おっさんのことか、不安ってキムチみたいなもんでさ、
 けっこう白米に合うって感じするよな、彼女もそう言ってた
 わたしはね、不安なんだよ!すごく!
 まるで女学生が三つ編みの編み具合がしっくりこなくて
 登校拒否してしまうようなね!
 話してみなよ、彼女からのメールの返信来るまで聞いてやっからさ
 :::わたしは警備員という仕事をしながら
 いつだって強盗したくてたまらないんだよ
 この敷地内の市民ホールの警備も担当してるんだが
 ホールに掛かってる高額な絵画とか舞台上のグランドピアノとか
 金庫破りもしたいし気に入らないやつは殴りたいんだ
 駐車場の車は全部車上荒らししたいし
 受付嬢を襲う衝動も捨てられない、あと、トイレ掃除のおばはんを
 脅迫して貯金とか全部奪ってひさんな人生で終わらせたいんだ
 でも、わたしが実際に犯罪に手を染めることはないんだよ
 いっつもぎりぎりのとこで踏みとどまって
 普通の顔して一日の仕事をこなし、寡黙にね、ときどき
 ジョークなんか言ったりして、トイレで用を足して
 チャックをしめたとたん、にゅるる〜と残尿が漏れて
 制服のズボンをよく濡らしたりしてるよ、
 つまり、これが身長173センチ、右投げ左打ちの普通の男の生活だよ
 日々、犯罪欲と良心との葛藤で、わたしはぎりぎり舞いなんだけど
 その葛藤の按配が好きなんだろうね、まあ、だからこそ、
 わたしは長くこの仕事をやってるんだろうね、
 仕事中以外の時間には、こんな葛藤なんてないから、
 自分でも不思議だよ、辞めちゃったらこんな思いもできないんだよ
 警備員のおっさんの語り口調はだんだん静かになってゆき、
 パッとおっさんの右手の甲を見たら、
 『そら豆』って太マジックで書いてあった
 たぶん、今日の仕事終わりの買い物で忘れないためかも

 へー、やっぱそれってキムチみたいだね、チャンジャとか
 ピピンバでもいいけど、すごく白米に合うって感じだな
 なかなか彼女から返信のメールこねえや、
 今日のシフト遅番だったかな?
 こういう待ちっていらいらするんだよな、なんか気になってさ
 携帯を開けたり閉じたりしてる姿からも
 いらいらしてるおれははっきり自覚できた

 やっぱりわたしが牛乳買ってこようか?いらいらするときは
 牛乳がいいんだよ、そして、飲む絶好のタイミングは、
 銭湯か温泉、最低でも家庭風呂を上がってからの時間だよ
 腰に当てた腕はちゃんと『く』の字になってて、
 背景は妥協してあんたが好む新宿スタジオアルタ前でいい
 似合うねぇ、あんたはすごい似合いそうだよ
 うれしそうにおっさんは両方の指を鉄砲の形にして
 ノリノリでパキュンパキュンさせてる

 でもさ、風呂入って、長いこと浸かったらさ、気持ちよくなって
 いらいらもおさまると思うんだけど、その時点で、
 わざわざ牛乳なんか飲まなくてもかまわなくなるとおれなんかは
 思うんだけど、メール返ってこないのは、彼女怒ったのかなあ、
 怒らせるようなことした覚えはないんだけど、
 なんか気に食わなかったんかも、やきもきするなあ
 ポカスカ日和の光浴びておっさんの顔の表面には
 アブラが浮いてきた
 牛乳♪牛乳♪牛乳♪と鼻歌をうたってる
 すっかり警備員という職業の不安は忘れてるようだ

 メールの返信こねえなこねえな、と思ってると
 屋上へ続く階段を誰かが駆け上がる音が聞こえた
 すごい勢いで、何だか一直線のような気配を感じて
 おっさんも同様に感じたみたいで、二人ともに
 その方向をパッと見たら、
 水色の制服を着たジョーシン電機の配達マンが
 家庭用の洗濯機を背負って屋上まで駆け上がってきた
 おれたち二人のところまでやってくると、
「洗濯機、お届けにあがりました!」
 と快活な声で言った、顔と背中には汗

 なんだ、牛乳じゃなかったのか、屋上に
 土足で入ってくんじゃねえよ、靴は脱げ靴は
 ここは人のうちとおんなじなんだぜ、てめえ、わかってんの?
 自分ちでも土足か?おまえは、狂ってるぜ、らっきょうしか
 食ってねえような頭の中身してるぜ、それになんで洗濯機なんだよ?
 なんで牛乳じゃねえんだ?ああ?おまえ、地獄に落ちたいか?
 もう地獄に落ちてんのかもな、こうやって、このタイミングで
 俺のところに導かれるようにきて、ぶん殴られるだけじゃ済まなく
 歩いて帰れなくなるんだから、潰された蟻んこみたいに
 地べたでそのまんま干からびるんだから

 これだけしゃべると、おっさんはジョーシン電機の配達マンから
 洗濯機を奪い、それを頭上まで持ち上げて、
 水色の制服、配達マンの頭上に思い切り振り下ろした
 ものすごい音がして、洗濯機の部品やら一部がそこらに飛び散った
 配達マンはうつぶせに倒れて、頭から血を流して動かなかった
 それを見下ろしてる警備員のおっさんも、まったく動かなかった
 法を犯し、自分の犯罪欲がむき出しになった結果を
 全身で感じ、感情は一つも言葉にならなかった
 ただ、だらんと垂れた右手の甲の『そら豆』という文字が
 どの午後より死んじゃってる午後の図書館の屋上に
 ふさわしくて、心が、ぎゅん、となった
 牛乳飲みたくなったけど、おっさんはああだし
 何度も新着メール問い合わせするたびに
 なんの反応もなくて落ち込んだ。怒らせたかなあ、あのひと言かなあ、
 彼女意外とへそまがりだからなあ、やきもきするなあ、この時間帯は、
 さっきからおれは彼女からのメールの返信を待っていた

 





自由詩 右手の甲にそら豆 Copyright カンチェルスキス 2007-03-03 17:34:46
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